2013/08/21

利根川の改修:明治以降

●利根川・江戸川の現状と課題 (PDF) - 国土交通省 関東地方整備局
http://www.ktr.mlit.go.jp/tonejo/seibi/kouchoukai/vol1/5.pdf
●暴れ川!坂東太郎-利根川水との闘い - 千葉県
http://www.pref.chiba.lg.jp/bousai/bousaishi/documents/dai1syou_3.pdf

●明治33年 利根川改修計画 流量配分図⇒利根下流:江戸川の流量比率. 2.86:1。 
明治43年洪水後 利根川改修改訂計画. 流量配分図⇒利根下流:江戸川の流量比率. 1.5:1
http://www.pref.gunma.jp/contents/000073046.pdf

2013/08/15

釜ケ原(鎌ヶ谷)の位置、分水嶺、利根川の東遷など

釜ケ原(鎌ヶ谷)の位置と分水嶺・遺跡など について、図示してみました。
<地図で遊ぶ・・Googleの地図を並べながら見て・・歴史を、地形を楽しんでください>

           より大きな地図で 日本・利根川・荒川・房総の分水嶺 を表示
              ↑↑↑クリックすると、別ウィンドウでGoogle地図が表示されます。

1:釜ケ原(鎌ヶ谷市)は、千葉県の北西部、北総の台地にあって、松戸市、柏市、白井市、船橋市、市川市に囲まれています。



2:この釜ケ原(鎌ヶ谷市)の各地に降る雨は、北側は手賀沼・印旛沼経由で太平洋に向かい、南側は真間川・海老川を経て東京湾に流れ込みます。つまり「分水嶺=分水界」上にあるわけです。(by市:鎌ヶ谷の河川



3:この分水嶺を南に向かうと・・
千葉・房総の分水嶺」があります。

千葉の分水嶺」とは、千葉県北部の「利根川方面と東京湾方面への分水の境」。
房総の分水嶺」とは、房総半島の「太平洋と東京湾の分水の境」のことで、 「房総分水嶺」の出版物もあります。
(房総半島の南西端「須崎」から始まり、半島の背骨を北東にたどり、茂原市の西にある「権現の森」「六地蔵」までの分水嶺)・・(次の4:の地図も参考にしてください。)
「房総分水嶺―半島の背骨を歩く』忍足 利彦(著) 崙書房出版


4:一方、北に向かう分水嶺をたどってみると、まず「千葉県」「埼玉県」「群馬県」「栃木県」「茨城県」が接している付近で、歴史的な大工事「利根川の東遷」の場所に到達します。下図の2重丸のポイントです。



5:約1000年前の関東平野の水の流れを下図に示しますが、手賀沼と太日川にはさまれた現在の鎌ヶ谷(地図では下総府)を上流にたどってみると、利根川や渡良瀬川が西にあり、それらの川は東京湾に流れ出ていたことがわかります。(by net


 
6:つまり、鎌ヶ谷を走る「本来の東京湾:太平洋の分水嶺」は、思川の東側を北上し、日光・中禅寺湖の南を通り、尾瀬沼の東にある黒岩山で、日本の「中央分水嶺(太平洋と日本海を分ける分水嶺)」に到達していたのです。
日本の中央分水嶺と房総分水嶺
(日本・利根川・荒川・房総の分水嶺 を表示 ・・別ウィンドウでGoogle地図が表示されます)


7:徳川幕府の時代、利根川・渡良瀬川・荒川などの洪水対策のための治水や、川を用いた物資運搬などから、1621年~1654年(通水成功)に赤堀川などを開削し、利根川・渡良瀬川の流れを、江戸川(東京湾に流れ込む)から、常陸川(銚子に流れる)に 向ける大工事を行ったのです。

ただし1954年の赤堀川の川幅は18mほどしかなく、主に銚子から江戸への物資輸送水路を目指したもののようです。利根川・渡良瀬川のほとんどの水は、現在の江戸川に流れていました。
赤堀川の川幅は、1760年49m、1809年70m、1871年(明治4年)赤堀川バイパス完成と、多くの水は銚子方面に流れるようになりました(現在は700mもあります)。
1877年の渡良瀬川上流の足尾銅山の本格採掘以降、鉱毒被害が下流の農作物に及びだし、1898年には江戸川への流入制限を強化したので、利根川は完全に東遷。1906年渡良瀬遊水池設置で鉱毒遮断・洪水防止なども行われました。下に関連図(by net)を示します。

これを「利根川の東遷事業」と呼びます。

8:この「利根川の東遷事業」の結果、鎌ヶ谷を走る「江戸時代以降の東京湾:太平洋の分水嶺」は、上流では利根川:荒川の境が分水嶺となり、熊谷市と深谷市の間を東に向かい、秩父山地を通り、三国山(御巣鷹山の南、三国峠の北)で、日本の「中央分水嶺(太平洋と日本海を分ける分水嶺)」に到達するルートに変わったのです。


9:群馬県全体、栃木県南西部、埼玉県北部(面積では日本全土の2%以上、群馬県の約1.5倍)の水の流れを、東京湾から太平洋に直接流すように変えたわけですから、東京湾や千葉・茨城の自然環境も大きく変わったことでしょう。
 特に東京湾の水質・養分などはかなり劣化したことでしょう。

 近年の利根川と江戸川への流量配分を調べてみましたが、
利根川(取手)10,500立方m/s、江戸川(松戸)7,000立方m/s(40%) という数値(洪水時の目標?)と、分派率はおおむね20-30%という数値(通年ピーク時実績?)があります。 (net)
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10:奥東京湾、古鬼怒湾
 5:で表した約1000年前をさらにさかのぼる、約5000年前の地図(右図)と、現代の地形図をもとに海面が約13m上昇したと想定した場合の海岸線(左図)を比較してみました。(by net) (by net)

そこには、過去に存在した「奥東京湾」「古鬼怒湾」の形が浮き上がって見えています。



11:氷河期は海水面が下がり(陸が広がり)、氷が溶けると海水面が上がるように、海岸線が移動しますが、その関連を表したのが下図です。(by net)

12:古代の鎌ヶ谷周辺にはいくつもの遺跡や貝塚がありますが、海抜が約20mほどの場所にあります。潮の満ち引きがありますから、その時代、海面は今より約15mほども上昇した状態だったと想定できるのです。(by 鎌ヶ谷市郷土資料館)


「氷河の侵食谷」 と 「河川の侵食谷」 と 「谷津/谷戸」 の違い 谷津の成り立ち も参考に>
12:Google-Mapsに、以上の情報を書き込んでみました。
赤い日本の大分水嶺と、青い房総半島への分水嶺。利根川東遷の結果、緑色の線の北側の
「群馬県の1.5倍ほどの広大な面積の雨水が、東京湾から、銚子に向かって流れを変えた」のです。
かなりたくさんの環境が、大きく変化したことでしょう。その影響なども今後分析・推測していきたいものです。

地図を部分拡大したり、縮小して全体像を見るなど・・想像しながら楽しんでください。


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