2014/09/29

鎌ヶ谷周辺の構造線(中央+柏崎・千葉)について

鎌ヶ谷周辺には、「中央構造線(右図の赤)」と「柏崎・千葉構造線(図の青色の右側)」が走っています。

・中央構造線(ちゅうおうこうぞうせん)は、日本最大級の断層系。関東から九州へ、西南日本を縦断する大断層系で、1885年明治18年)にハインリッヒ・エドムント・ナウマンにより命名される。中央構造線を境に北側を西南日本内帯、南側を西南日本外帯と呼んで区別している。

中央構造線(wiki)
大鹿村中央構造線博物館

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柏崎・千葉構造線は、フォッサマグナ(=中央地溝帯・大地溝帯とも呼ばれる面であり、西側の境界線縁が「糸魚川静岡構造線」である) の北東の境界線縁の断層。日本の主要な地溝帯の一つで、地質学においては東北日本西南日本の境目とされる地帯。

フォッサマグナのエリアは浅い海であり(右図参照)、2,500万年前以降の新生代 に堆積物火山噴出物で次第に満たされた。数百万年前、東北日本が東から圧縮されることで隆起し中央高地日本アルプスとなった。この新しい地層の両側(=4 - 5億年前のアジア大陸縁辺の岩盤)では全く異なる時代の地層が接している。
フォッサマグナ(wiki)
日本列島#成り立ちと現在の地形(wiki)


2014/09/26

粟野の森周辺:歴史的航空写真

「地図・空中写真閲覧サービス」による森の移り変わり (2014.9.26作成)
年を指定:鎌ヶ谷市(森)は 1944/09/24(昭19)以降。高解像度の映像あり。
検索方法(1944年の映像の例)
http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do
・「1944年まで」、「空中写真」⇒「鎌ヶ谷周辺を拡大」
・「初富付近クリック」⇒「高解像度表示」 でキャプチャ。
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●1944/09/24(昭19)陸軍撮影:森の右側の黒い影は、フィルムを押さえた金具の跡らしい(「高解像度表示」 で、森部分がやっと見える)。
森には境界線の針葉樹が見えるが、他に余り木々は見えない。燃料にしたためだろう。(9月撮影なので木があればもっと黒く見えるはず)。西からの野馬除け土手の木が見える。

 
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●1946.02.13(s21):森の境界線の針葉樹がはっきり見える。現在のシラカシの極相林個所に若干の潅木が見える。森北東の場所にはほとんど木が見えない。西からの野馬除け土手の木が見える。


 
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●1947.11.28(s22):):森の境界線の針葉樹がはっきり見える。現在のシラカシの極相林個所、森北東の場所とも低木らしきものが見えだす。森内の道がはっきり見える。水田がくっきりと見える。西からの野馬除け土手の木が見える。

 

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●1961.3.23(s36):):森の境界線の針葉樹がはっきり見える。現在のシラカシの極相林付近に茂みが見え出す。北東の場所は低木が見える。左上から右下に、道路のように木々を刈り取った跡が見えるが、高圧線か?。水田がくっきりと見える。西からの野馬除け土手の木が見える。

 
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●1966.10.19(s41):):森の境界線の針葉樹がかろうじて見える。現在のシラカシの極相林付近に茂みは大きくなってきた。北東の場所を含め、全体に木が密集してきた。左上から右下の道路のような跡が薄くなってきた。水田はまだ全面に作られている。西からの野馬除け土手の木が見える。
飛行場南の道路が整備された。安田学園のグランドができた。




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●1979.11.14(s54):カラー映像:森の境界線の針葉樹がかろうじて見える。シラカシの極相林付近に茂みは大きくなってきたが、まだまばら。北東の場所を含め、全体に木が密集してきた。落葉樹と常緑樹が区分できる。左上から右下の道路のような跡はほとんど見えなくなった。水田はほんのわずかを残し、畑?雑草になった。西からの野馬除け土手の木がわずかに見える。
粟野コミセンの場所にプールが作られ、家作/アパートも作られた。北の畑に民家が建ちだす。国道464の計画場所が見えてきた。市制公園の野球場・テニスコートが見える。

 
 


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●1984.10.22(s59):カラー映像:森の境界線の針葉樹がほとんど判らない。シラカシの極相林付近の茂みはかなり大きくなってきた。北東の場所を含め、全体に木が密集し育ってきた。落葉樹と常緑樹の区分は判りづらい。水田はすべて畑?雑草になった。埋め立てした場所が見える。。西からの野馬除け土手の木がほとんど見えない。
国道464の工事が始まった。市制公園が東に広がった。


 
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●1989.10.18(h1):カラー映像:森の境界線の針葉樹はほとんど判らない。シラカシの極相林は密集してきた。北東の場所を含め、全体に木が密集した。水田の場所は雑草地のようだ。埋め立てした場所が見える。西からの野馬除け土手の木がほとんど見えない。
国道464が北側のみ開通して車が走っている。市制公園北に建物が建ちだす。

 
 
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●2001.12.31(h13):カラー映像:森の境界線の針葉樹はほとんど判らない。シラカシの極相林は密集。北東の場所を含め、全体に木が密集。常緑樹がはっきり見える。水田の場所は雑草地のようだ、竹林?も見えだす。西からの野馬除け土手の木がほとんど見えない。
国道464は南側(西行き)の工事が始まった。市制公園北に建物がかなり建つ。ストックボックスも見える。 

 
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●2008.5.6(h20):カラー映像:森の境界線、シラカシの極相林など全体に木が密集。常緑樹と落葉樹が区別できず。大津側沿いの雑草地に竹林が広がる。埋め立てした個所に栗林が見える。西からの野馬除け土手の木がほとんど見えない。
国道464は南側(西行き)が開通した。市制公園北に建物、ストックボックスがハッキリ見える。

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●分析:ほとんどの高木は、60-70年経っている。境界線の針葉樹はそれ以上経っている。
⇒問題点:それら老木の萌芽更新は難しい。シラカシの極相林の林床に光が届かない。・・その他・・列記していこう。

2014/01/29

「白井:冨士93-23(高圧線鉄塔) ~ 白井:冨士198-40(八幡神社)間」の野馬土手の現状


「鎌ヶ谷:初富小学校北 ~ 白井:冨士 間」の野馬土手の現状 で調べた、「白井:冨士93-23(高圧線鉄塔)」の場所から、北東に延び、「 白井:冨士198-40(八幡神社)間」の間に存在した野馬土手について、 位置、現状などについて調べてみました。
中野牧の全体像は、http://kamagahara.blogspot.jp/2013/08/blog-post_26.html を参照ください。
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1:Google-Mapsで見るその付近の地図と野馬土手の位置

【中心から、右上に延びる勢子土手の調査】

●より大きな地図で 野馬土手(のまどて) を表示
全体を一度に見るにはこちらが良いのでは(200以上のポイントが一括表示)・・実験中
【↑新しい窓で開いて、本文と同時に見ると理解しやすいでしょう】

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2:明治初期の迅速測図と、現在地図とのオーバレイ図

●下の左図は「迅速測図」で、明治13年(1880年)に測量されたものです。
・2重の太線は野馬土手で、「イ」のマークがあることから「一重の土手=勢子土手」だと判ります。
・野馬土手のこの区間は、約600mの直線で、海抜は約30mです。

・「一本椚牧」は江戸中期(享保8年1723年頃)に「中野牧」に吸収されたため、以降は中野牧の勢子土手です。

・左下のT字のポイント「土手の接点の高圧線鉄塔」から、右上の低地(当時は谷津だったと思われる低地)まで続いています。
・この右上のポイントの直前には、現在は「八幡神社」があります。
・この右上の地点は谷津、そこから神埼川の支川となり、船橋市小室付近で二重川と合流、神埼川となり印旛沼に向かいます。
・その谷津を約500mほど下った地点は、中野牧の「野馬除土手」があり、当時は中野牧と白井村の境になっていました。

●下の右図は「歴史的農業環境閲覧システム」で、
「迅速測図」と「基盤地図情報25000(現状の概略)」をオーバレイした図です。


【↑左=基盤地図情報25000とのオーバレイ図、↑右=迅速測図】


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3:各地点ごとの当時と現状の比較

南西から北東の各地点(F~I~J~K)ごとに「当時の野馬土手」と「現在の状況」を比較していきます。
【↑左図=地点F~I~J~Kの全体像】                  【↑右図=市道のNO資料】
・市道の番号については「白井市道路線網図 」 から入手しました。

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F地点付近:
 
・高圧線鉄塔の真下に野馬土手の遺跡が残っている。

・この地点が
「鎌ヶ谷:初富小学校北 ~ 白井:冨士 間」の野馬土手の現状 」の調査情報との、野馬土手の分岐点である。
 
 















【↑:鉄塔の基礎の盛土が野馬土手の跡】
                                                         

・地理院地図の1974-77年の写真には、F~iH地点に野馬土手が連続して残存しています。【↑】
・野馬土手の北側を見ると、1880年(明治13年)の迅速測図には道路はありませんでしたが、1974-77年には、道路ができています。

・「電子国土Web.NEXT電子国土WebNEXT」によると、1979-83年の写真から人家が建ち始めます。


【←:鉄塔付近から北東を見る】
                                   





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i 地点付近:



・i の地点に野馬土手が一部残存しています。







【←:一部残存】





【←:i の地点からFの鉄塔を見る】










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J地点付近:



・現在、八幡神社の直前まで、道の両側に人家はほぼ切れ目無くつながっています。【↑】

・地理院地図の1974-77年の写真では、半分以上は野馬土手だったと観察されます。【→】














・八幡神社直前から、南西に鉄塔を遠望する。
この商店側の人家の位置に、野馬土手はあった。【→】











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K地点付近:




・道路の突き当りが「八幡神社」です。
【←】










・神社側から見た直線道路。遠方に鉄塔が見えるはず。
【←】











・この「八幡神社」の境内に、「白井開拓30年記念碑」があります。

・その裏面の文に、
「昭和24年(1949年)に、この周辺台地が37名の入植者に売り渡され、その安全・豊穣・繁栄を祈願して八幡神社を建立した。その改修をし、開拓30年を記念して碑を建てた」とあります。

・確かに明治13年(1880年)の「迅速測図」には、この神社は記載がありません。

・左手には「清田源三郎翁顕彰碑」で、当時鎌ヶ谷町に住んでいた人物。所有の山林、通称源内山130ヘクタールを開放したとあります。




・建立者として名を連ねているのは27名ですから、この30年の間に10名の方は何らかの事情でこの地を去ったのでしょう。

・アイウエオ順だと書かれていますが、記載された名前はかなりランダムです。多分寄付金額の差で順序が入れ替わっているのでしょう。

・上段の右から、緑川、鈴木、中島、石井、三橋、長谷川氏あたりが高額な方たちでしょう。


★「開拓の碑 冨士(千葉県白井市)」・・きいちさん
の「戦後開拓地」情報に、この碑に関連する情報が詳しく書かれています。
(ただし、八幡神社から南西に向かった、道路左側が防風林跡で・・ と書かれております。当初の「野馬土手」は、開拓の時代には「防風林」として貴重な林だったのかもしれません。)


<完>

「鎌ケ谷の野馬土手」e氏 著作(~2018年)も参考に