2015/11/25

橋本遺跡(縄文-早期=1.2万年前~中期=4500年前)


所在地:千葉県鎌ケ谷市粟野橋本691
緯度経度:35.788694, 140.004167
に「橋本遺跡」はしもといせき が 昭和53年度(1978年度)に発掘されたという

縄文(早期+前期+中期)のものだとのこと・・
 早期(約1万2,000 - 7,000年前)
 前期(約      7,000 - 5,500年前)
 中期(約      5,500 - 4,500年前)

遺跡からは、植物を調理する製粉用の石皿が見つかり、植物性食料が増えたらしい。

<早期(約1万2,000 - 7,000年前)>
・約1万3000年前から1万年前は、最後の氷期である晩氷期と呼ばれる。
・列島の多くが落葉広葉樹林と照葉樹林で覆われた。コナラ亜属やブナ属、クリ属など堅果類が繁茂するようになった。
・温暖化による植生の変化は、マンモスやトナカイ、あるいはナウマンゾウやオオツノジカなどの大型哺乳動物の生息環境を悪化させ、約1万年前までには、日本列島から、これらの大型哺乳動物がほぼ絶滅してしまった。

⇒縄文早期になると定住生活が出現。
⇒早期半ば頃までは住居とゴミ捨て場が設置されるが、住居を持たなかったり、季節によって移動生活を送るなどの半定住段階であると想定している。この段階は縄文時代の約半分の時間に相当する。
⇒縄文早期前半には、関東地方に竪穴住居がもっとも顕著に普及する。
⇒植物質食料調理器具である石皿、磨石、敲石、加熱処理具の土器も大型化、出土個体数も増加する。定住生活には、植物質食料、特に堅果類が食料の中心になっていたと想像されている。
⇒定住的な生活をするようになった縄文時代人は居住する周辺の照葉樹林や落葉樹林を切り開いたことにより、そこにクリやクルミなどの二次林(二次植生)の環境を提供することとなった。定住化によって、縄文人は、集落の周辺に林床植物と呼ばれる、いわゆる下草にも影響を与えた。ワラビ、ゼンマイ、フキ、クズ、ヤマイモ、ノビルなどの縄文人の主要で安定した食料資源となった有用植物が繁茂しやすい二次林的な環境、つまり雑木林という新しい環境を創造したことになる。縄文時代の建築材や燃料材はクリが大半

<前期(約7,000 - 5,500年前)>
⇒次いで早期末から 前期初頭には、定住が確立し集落の周りに貝塚が形成され、大規模な捨て場が形成される。

<中期(約5,500 - 4,500年前)>
⇒中期後半には、東日本では地域色が顕著になるとともに、大規模な集落が出現して遺跡数もピークに達する。



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http://www.isekiwalker.com/iseki/344493/
遺構概要
県文化財地図、包含地。大津川水系。<立地>台地上。<現況>宅地+畑。<保存状況>一部消滅。 
遺物概要
県文化財地図、縄文(早期+前期+中期)-縄文土器(夏島式+子母口式+黒浜式+諸磯a式+諸磯b式+浮島II式+加曽利E式)+打製石斧+石匙+磨石+敲石。 
発掘概要 
鎌ケ谷市送電線所在遺跡調査会
その他概要
県抄報昭和53年度。県文化財地図1997、23-50。 

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鎌ケ谷市の歴史http://homepage2.nifty.com/arakinokara/hgotoh3/kamagaya5/kamagayanorekishi.html

縄文時代の遺跡としては、鎌ケ谷警察署の北側にある
 林跡遺跡が最も古く、草創期の遺跡で隆起線文土器や
 石鏃(矢じり)、尖頭器(槍先)などが出土している。

 早期としては落山、東野、上葉貫台、★橋本遺跡がある。
★粟野保育園の西側にある橋本遺跡では植物を調理する
 製粉用の石皿が見つかり植物性食料が増えたと思われる


 前期の遺跡としては市制記念公園内にある五本松遺跡が
 あり、三軒の竪穴式住居跡が発見されました。炉や柱を
 立てる穴もあり、狩りの為の石器も多く出土されている。
 郷土資料館に展示してある竪穴式住居です。


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ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3


2015/10/08

粟野十字路(鎌ケ谷市)の変化

粟野十字路(県道18号:船取線)は、1965年(昭和40年)頃、直行に整備された。 
・1880年(明治13年)頃は、野馬土手で分断されていたが、1882年頃道(公道)ができた。
・1940年(昭和15年)頃は、宮(名称不明)を通過するクランクルートだった。
・1945年頃、ほぼ現在に近い道路整備されたが、まだ直線ではない。


2015/02/14

稲荷前三差路、稲荷西交差点・・付近に稲荷神社はあったか? バス停の名称?

船取バイパスに、「初富稲荷神社入口」という バス停を最近見つけた。
・船橋新京成バスの「平日深夜運行」のバス停である。
(船橋駅北口・・⇒新鎌ヶ谷駅⇒・・五本松小学校⇒このバス停⇒東武分譲地⇒鎌ヶ谷大仏)

★疑問点は、
A:このバス停の名称のとおり、「初富稲荷神社」は近くにあるのか?

 ∵初富駅付近にある「初富稲荷神社」以外に、もうひとつ神社があるのか?/あったのか?

 ∵ 初富稲荷神社は初富駅付近にあって、ここからは歩いて10分以上離れているのに、そんな名前を付けるのは変。

 ∵初富駅付近にある「初富稲荷神社」(鎌ヶ谷市初富本町1-4 =字は、富栄)の石碑に「以前違う場所にあり、移転した」との記述はない。

B:この南にある「稲荷前三差路」、「稲荷西交差点」の名から、神社があったと推測してつけたのか?

C:「稲荷」の名は、なぜこの周辺の土地に付いているのか?

関連する地図は以下である。
https://www.google.co.jp/maps/search/%E9%8E%8C%E3%83%B6%E8%B0%B7%E5%B8%82%E3%80%80/@35.7669599,140.0079317,16z


<小字-区分図>
⇒2015.2.6鎌ヶ谷市郷土資料館で問合せ。

C:「稲荷」の名は、なぜこの周辺の土地に付いているのか?
⇒ans:
・右図のように、この付近の字が「稲荷前」である。
・なぜ「稲荷前」という字が付けたかを推測すると・・以下の3つが推測できる。

初富稲荷神社(鎌ヶ谷市初富本町1-4 =字は、富栄)の前なので。

②近くにある右京塚神社(鎌ケ谷市 右京塚7丁目60番地 )もやはり稲荷神社なので。

③二つの稲荷神社の前/間の場所なので。


B:あの三叉路付近が「字 稲荷前」なので、「稲荷前三差路」と名づけたのではないか。

  ・その後、船取バイパス道路が作られ、その西側の交差点なので「稲荷西交差点」と名づけたのだろう。

A:あの三差路付近に神社があったとの記録はない。
 中野牧の内側(牧場地)なので、江戸時代に両方の稲荷神社すら存在しなかった。

<結論>
・あの三差路付近に、稲荷神社はなかった
・あのバス停の「初富稲荷神社入口」という名は、歴史的には根拠がなさそう。
 ・・初富エリアにある、稲荷前という地名から・・「昔、神社があったらしいと」勘違いし・間違って命名したのではないだろうか??
 ・・「山屋食品・鎌ケ谷工場前」 とか 「南初富郵便局西」 とかが妥当な名称では??

 

<関連情報>

・初富稲荷神社は、明治2年(1869年)に創建された。明治初期の旧幕府の武士による初富地区の開拓が始まり、ご守護と繁栄を願うため創られた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%9D%E5%AF%8C%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE

・右京塚神社は、明治4年(1871年)に創建された。
その付近(右京)に塚があったことから、「字 右京塚」と地名が付けられたらしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B3%E4%BA%AC%E5%A1%9A%E7%A5%9E%E7%A4%BE
             以上