2012/05/13

粟野の森と野馬除土手(野馬土手)

<改:野馬土手を鎌ヶ谷市周辺まで展開←←初版:2012.5.13>
粟野の森に接して、野馬除土手(のまよけどて)/野馬土手(のまどて)があります。

2012年鎌ヶ谷市郷土資料館発行の「絵図と地図でみた鎌ヶ谷の400年」資料、同展示地図、下欄のサイトの情報などから、粟野の森と野馬除土手について整理してみました。
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1. 野馬除土手(のまよけどて)/野馬土手(のまどて)とは:
江戸幕府が軍馬供給のため、千葉県北西部に直轄の牧場小金牧を設置し、約1000頭の馬がいました。牧の馬は放し飼いにされていたことから「野馬:のま」と呼ばれました。

 5つに分かれていた牧のうち最大のものが「中野牧」で、現在の鎌ケ谷・松戸・柏・白井に広がっており、牡牝約300計約600頭の記録があります。

 幕府崩壊後、大量に発生した江戸窮民の対策に苦慮した明治政府は、1869(明治2)年に牧を廃止。中野牧は「初富・五香・六実」と三分して開墾されましたが、その牧の遺跡が鎌ヶ谷市にも点在しています。

 右図は、「1722年(享保7年)の中野牧の図」に、粟野の森部分(緑色)をオーバラップしたものです。

 図の右で縦に伸びる線は、中野牧と一本椚牧の境界で、現在初富小学校の西に残る遺跡です。江戸時代前期は「東=一本椚牧」、「西=中野牧」の境でしたが、江戸中期以降は「中野牧」に併合されました。


2.右図は「1877年(明治10年)頃の粟野村の地引絵図」に、粟野の森部分(緑色)をオーバラップしたものです。

 粟野の森は、当時から林(森部分)と、田畑(大津川部分)であったことがわかります。

3.右の地図は2とほぼ同じ時期に作られた「1880年迅速地図」で、野馬除土手の位置関係がかなり明確に特定できます。

 また粟野の森の大津川部分は、水田であったこともわかります。



4.粟野の森の西~消防署、市制公園の東~市民体育館は、旧粟野村との境に大きな構造体があります。

 これが「野馬除土手で、二重構造の土手であったと推定できます。

その土手の幅は14~17mもあり、現在の国道464の片方+歩道を含めた幅(約14m)とほぼ同じかそれ以上の大きな構造でした。
(参考A)
野馬除土手:のまよけどて」、その構造
 馬が逃げ田畑を荒らし集落への侵入を防ぐための、牧の周囲と集落の周辺の土手で、通常二重で間に野馬堀という堀を作りました。

 土手の高さ3m前後、堀の深さ2m前後、合わせた比高差5m前後、全体の幅14~16m。
(上野牧の迅速測図の例では、大土手が高さ3.5、上辺4.0、下辺8.0の台形、堀が幅6.0、底幅2.5、深さ3.5、小土手が底辺3.0の半円形の断面・・合計幅は17m)
(残存は高さ1.2~2.6m)。



.粟野の森の西南は、野馬が谷津(水田)に降りてこないよう、急勾配の斜面のままにしてありました。
 後で示す地図も参照。

(参考B)
谷津との境の土手」は台地の縁、斜面の上に土手が築かれた。と資料などにあるが、粟野の森の場合は険しい地形を利用したため、土手を築く必要はなかったと思われます。


6.右に「2006年発行の洪水ハザードマップ」と、その下に「2011年ごろ撮影のGoogleの航空写真」を示します。
 4.で粟野の森の南側が野馬除土手に接
していないのは、国道464用地とその南の若干の民有地があるからです。

市制記念公園東から市民体育館北に続く土手の北は、2.で判るようにすべて江戸時代からの林でした。


7.市民体育館の東には、野馬除土手を南北に横切る道路があったので、木戸があったはずです。

 現在残っている小さな社は、その跡付近と推定されます。

(参考C)
牧内には道も通っていたため、馬の脱出を防ぐため、出入口部分の土手の切れ目・道の乗越え部分には「木戸」が設けられました。

 ・・粟野の西にある八坂神社付近にも木戸があったと思われます。



8.市民体育館の東から南に向かって、初富小学校方向に伸びている土手は、勢子土手で、江戸時代前期の「東=一本椚牧」、「西=中野牧」の境として、また馬の誘導路として当初の幅は約10mあったと思われます。

(参考D)
勢子土手:せこどて」は、牧内の馬の集約捕獲時の誘導路。
高さ約3m、基底部幅約10mの1条土手






9.旧粟野村は、馬の追込・鷹狩・鹿狩の勢子・人足の供出、土手の補修を行う、「野付村」でした。

(参考E)
谷津」は牧に適さず、水田に適した。このため、牧と谷津の「隙間」に農村集落が形成され、馬の追込・鷹狩・鹿狩の勢子・人足の供出、土手の補修を行い、「野付村」と呼ばれた。

 粟野の森の大津川沿いは水田であり、旧粟野村集落は北の谷津と南の土手で囲まれた典型的な野付村であった。

10.各地点の現況写真を、Googleマップに貼り付けてみました。
 マークをクリックし「拡大写真」で、大きな画面で見ることも出来ます。馬野除土手の部分も表記しています。(2012.5.10-14撮影)

より大きな地図で 野馬除土手(のまよけどて) を表示
11.参考資料・関連Webサイト

本:2012年鎌ヶ谷市郷土資料館発行の「絵図と地図でみた鎌ヶ谷の400年」

国史跡下総小金中野牧跡保存管理計画書(案)・・<市資料>
2008年、鎌ケ谷市教育委員会。小金牧の野馬土手のうち鎌ケ谷市に残る中野牧の土手を史跡として保存するための計画書
18世紀末以降の中野牧の推定復元図。未指定野馬土手現況写真対応図など

小金牧:ウィキペディア・・<wiki資料>
小金牧についての詳細な解説

歴史的農業環境閲覧システム:・・<迅速図資料>
明治初期~中期に作成された「迅速測図」と、現在の道路、河川、鉄道、土地利用図とを比較したもの。

下総小金中野牧跡 野馬土手(初富小学校校庭西側所在野馬土手)(鎌ケ谷市)

初富野馬土手
鎌ケ谷と白井の市境、野馬土手訪問記 2

野馬土手(のまどて)

小金牧中野牧跡・捕込(とっこめ)

                                 2012.5.13 kitamura

2012/05/06

渡辺崋山画  四州真景図(釜原) 文政8年(1825)

渡辺崋山の「四州真景図」が描かれたときの、彼の旅について調べてみました。
 

1825年(文政8年):渡辺崋山(1793-1841 江戸時代後期の武士画家) が鎌ヶ谷に宿を取りました。そのときに描いた絵が「釜原」で、「四州真景図」の2巻に行徳などと並んで「釜原」の絵があります。(by net
渡辺崋山 by net )


四州真景図巻をGoogleの画像検索で見てください。 1825(文政8)年6月29日(旧暦)~ 下総、常盤両国(鹿島,銚子)を旅行し、そのときの写生を図巻としたものです。

以下に1825(文政8)年6月29日(旧暦)からの旅について記載された情報を、時系列でねらべて見ました。
 <1825(文政8)年6月29日(旧暦)は、新暦に変換すると1825(文政8)年8月13日(土曜日)。>
 <日の出は4時57分、日没は18時34分です。(by net)>
 <真夏に旅したことになります。>

  
 ・6/29 午前6時家(江戸麹町=現在の東京都千代田区三宅坂付近=の田原藩邸)を出発。
 ・小網町3丁目 行徳河岸から船賃500文で船を借り切り、新河岸に着く。

 ・三又から逆井、中川船番所、船堀、新川を経て、行徳へ。(by net
  朝は曇っていたが行徳に来たときは晴れていた。
  大坂屋で昼食をとり(三人分で八百文)、スケッチ(常夜灯及び周辺景観)をした。
 
 
 

 ・その後八幡の葛飾八幡宮をスケッチ(鎌ヶ谷八幡宮をバックにした牧の風景)し、
 ・鎌ヶ谷の鹿島屋(鎌ヶ谷大仏駅付近)で夕食をとる
    (三人にて百四文、但し酒一合二十八文共に)、 (by net
 ・当時鎌ヶ谷の宿には船橋屋・江戸屋・鹿島屋・丸屋・銚子屋・柴崎屋の6軒の旅籠屋があった。

 ・木下街道経由
 ・白井宿の藤屋八右衛門方(旅籠:国道16号交差点付近)に宿泊した。 (by google-books)


 ・翌7月朔日(旧暦)の辰の刻(午前8時頃)、「藤屋」を出立。
 ・崋山の日記に「大森、亀成、手賀沼、手賀島、布佐」などの地名と由緒なども記載 (by net
 <翌7月朔日=翌日の7月ついたち=旧暦で6/29の翌日は新暦では7/1(日曜日)です>

 ・亀成橋あたりから「さっぱ舟」に乗り、手賀沼遊覧を経て木下河岸の「土橋」下に到着
 ・問屋 吉岡家七之助 で湯浴み、休憩後、塩せんべい(十六文)を購入し、
  「土橋」を渡って茶船に乗る。
  この木下茶船は長さ4間(約7mほど)の、中央に屋根がある屋根船で8人乗り。
  船の所有者は近在の百姓で、多くは夫婦による農閑稼ぎ。

 ・木下茶船(夜船)に乗り込んだ崋山一行は、利根川筋の神崎(こうざき)経由で津ノ宮、
  香取神宮へと向かった。 (by net)

・下図の南の道を、小網町から木下まで移動したのです。(by net


四州真景 (1974年) (覆刻渡辺崋山真景・写生帖集成〈第1輯〉)

は、amazonで[古書]として販売されています。
  • 出版社: 平凡社教育産業センター (1974)
  • ASIN: B000J93KMW
  • 発売日: 1974
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  • http://kamagaya-sanpo.blogspot.com/2015/10/blog-post_21.html も参考に