2013/11/19

「鎌ヶ谷:初富小学校北 ~ 白井:冨士 間」の野馬土手の現状

鎌ヶ谷:初富小学校北(鎌ヶ谷市東初富1-17-3付近)から 白井:冨士(白井市冨士117付近) の間に存在した野馬土手について、 位置、現状などについて調べてみました。
中野牧の全体像は、http://kamagahara.blogspot.jp/2013/08/blog-post_26.html を参照ください。
---------

1:Google-Mapsで見るその付近の地図と野馬土手の位置


●より大きな地図で 野馬土手(のまどて) を表示
全体を一度に見るにはこちらが良いのでは(200以上のポイントが一括表示)・・実験中
【↑新しい窓で開いて、本文と同時に見ると理解しやすいでしょう】

---------
2:明治初期の迅速測図と、現在地図とのオーバレイ図

●下の左図は「迅速測図」で、明治13年に測量されたものです。
・2重の太線は野馬土手で、「イ」のマークがあることから「一重の土手=勢子土手」だと判ります。
・野馬土手のこの区間は、約1kmの直線で、△マークの30.959mの基準点から見通せたようです。

・左上の野馬土手は、上が「中野牧」で下が「一本椚牧」の境の土手でしたが、一本椚牧は江戸中期(享保8年1723年頃)に「中野牧」に吸収されたため、以降は中野牧の勢子土手です。

・左上のT字のポイント「土手の接点」から、右下の県道59号線=木下街道=を越え、すぐ右下にある道路(同時に、当時は谷津だったと思われる低地)まで続いています。
・この右下のポイントは現在は3市の境界で、上は白井市冨士118-43 、下は鎌ヶ谷市東鎌ケ谷2-7-43、右は船橋市高野台2-1-8 です。
・この右下のポイントは、、印旛沼流域の二重川の支川で、その谷津を約500下った二重川が、中野牧と下野牧の境になっていました。

●下の右図は「歴史的農業環境閲覧システム」で、
「迅速測図」と「基盤地図情報25000(現状の概略)」をオーバレイした図です。
・迅速測図作成の時期が明治初期であり、測量技術・期間なども十分でないため、オーバレイ図の詳細位置関係については誤差が発生しています。


【↑左=迅速測図、↑右=基盤地図情報25000とのオーバレイ図】

---
3:各地点ごとの当時と現状の比較

北西から南東の各地点(A~H)ごとに「当時の野馬土手」と「現在の状況」を比較していきます。




【↑左図=地点A~Hの全体像】                      【↑右図=市道のNO資料】
・市道の番号については、「鎌ケ谷市認定路線網図」、「白井市道路線網図 」 から入手しました。

------
A地点(T分岐)付近:

・鎌ヶ谷市東初富1-17-3付近。
・初富小学校の北。
・東初富テニスコートの東。

・鎌ヶ谷市道2528号線が、勢子土手の西に沿って通っているが、地理院地図の1974-77年の写真にはこの細い道路は確認できません。あぜ道程度だった可能性があります。

・勢子土手がT字に分岐していたはずの場所付近には、現在は南東に向かう土手は見えない。

・鎌ヶ谷市道2528号線から、市道2523号線の間に小さな公園(通称タイヤ公園)があり、歩いて通過できる。

・以下のF地点からH地点の、高圧送電鉄塔の延長にあり、地図上の推測からも、タイヤ公園の南の家付近がT字の分岐点と想定します。

・鎌ヶ谷市東初富1-15,16,17の場所の土地・建物は、「電子国土Web.NEXT電子国土WebNEXT」の1974-77年の時点にはすでに建造されており、野馬土手を更地にして区画整理したものでしょうう。









【↑鎌ヶ谷市道2528号線の東に沿って、勢子土手があったが、現在は左手に一部残存している
。正面の小さな公園(通称タイヤ公園)の南側で、土手はT字に分岐していたと想定できる】



【↑小さな公園(通称タイヤ公園)の北に、野馬土手が残存している】


-----
B地点付近:

鎌ケ谷市東初富1丁目17−19付近市道17(0210)の間。















・地理院地図の1974-77年の写真によると、野馬土手の両側に道があった。現在は鎌ヶ谷市道2507のみである。
【右参照→】

・地理院地図の「明治前期の低湿地」には、ふたつの土手にはさまれた南西の土地(初富小学校側)は「低湿地とマーク」されています。
【↓左参照】

・この付近は鎌ヶ谷市野の河川資料によると、手賀沼(大津川)流域と、印旛沼(二重川)流域の境界=分水嶺であり、馬野土手の構築(江戸時代?)によって排水の悪い地区となったと推定します。

・分水嶺=峠をいくつも観察していると、その付近には沼や小さな池など、どちら方向に流れるべきか「悩む水の水溜り」が、できやすいのです。そんな場所に野馬土手=堤を作ったので、沼/湿地帯を発生させやすくしたはずです。

 



















【↑左図:緑部分が、明治前期の低湿地】 【↑右図:B地点から南東を見る。遠方の高圧線が直線に重なっている】

---
C地点付近:

・鎌ヶ谷市と白井市の境界になっている。

・鎌ヶ谷市道2507号線と、鎌ヶ谷市道17(0210)号線、白井市道00-008号線の交差点。

・野馬土手と道路が交差するこのポイントには土手が無く、馬を追うときのみ「柵」をしたと想定します。


<疑問点:海抜の差>
・迅速測図(2の地図)では、△マークを基点に測量しており、その高さは30.959mとなっている。
・現在の鎌ヶ谷市道の資料には、この交差点の海抜は28.8mとなっている。

・この差、2.159mは、野馬土手の高さであろうか?
(迅速測図の基点が土手の上としたら、ほぼその高さかもしれない)

---
D地点付近:


・白井市冨士151-2

・ロジュマン白井の敷地内(北)に遺跡解説がある。
【写真↓】










・ここは「野馬除土手 であり、中野牧と鎌ヶ谷村の草銭場を仕切る堤土手の役割を担っていたことが、当時の絵図から判明している」と書かれています。

・しかし明治13年の「迅速測図」には、「イ」のマークがあることから「一重の土手=勢子土手」のはずです。

・また、鎌ヶ谷市の資料「国史跡下総小金中野牧跡保存管理計画書(案)」からも、勢子土手とあり、鎌ヶ谷村の草銭場との認識は間違いと思われます。






























【↑上の写真が現状で、約20mがフェンスで囲まれています】



・さらにその奥に約20m、マンション敷地内にも土手形状が残存しています。
【→フェンス外:南東方向】










・ロジュマン白井の敷地の南、ロイヤルホームセンタ白井店の駐車場と、ばんどう太郎白井店駐車場から見る。
















【↑左:ロイヤルホームセンタ白井店の駐車場から見た北側の写真。遠方、ロジュマン白井の北に勢子土手の残存が見える。勢子土手は手前の緑の部分にあった】
【↑右:ばんどう太郎白井店駐車場から見た南側の写真で、勢子土手は右手の盛り土側にあったと推測できまる】



・地理院地図の1974-77年の写真によると、C~D~E地点には野馬土手がありました。

C地点には高圧線鉄塔の影があり、現在の位置と同じです。

・競馬場らしきトラックが、野馬土手の西側に広がっています。
【←左参照】









---
E地点付近:


・野馬土手と道路が交差するこのポイントには土手が無く、馬を追うときのみ「柵」をしたと想定します。


・この交差点から南に向かう道は、見事に直線。その跡地に現在人家が並んでいます。

・野馬土手の東側のみに道がある。




・鎌ヶ谷大仏駅~西白井駅の道路(白井市道00-007)と交差する場所から、北西を見る。勢子土手は、この民家の場所にあった。
【←左】








・鎌ヶ谷大仏駅~西白井駅の道路(白井市道00-007)と交差する場所から、南東を見る。勢子土手は、この道路の右、高圧線の下にあった。

・高圧線は道路と若干交差している。後の時代にできた高圧線鉄塔の設置場所は、推測するに、野馬土手の上に設置することに、隣接する競馬場が反対したためではないだろうか。
【←左】





・地理院地図の1974-77年の写真には、E~F~G~H地点に野馬土手が残存していました。

・当時、E~F地点までの東側には道路がありません。

F地点Gと地点には高圧線鉄塔の影があり、現在の位置と同じです。

・そこから南、F~G地点は両側に道路が見え、野馬土手が狭くなっています。ただし、人家はまだできていません。
【←左参照】

・「電子国土Web.NEXT電子国土WebNEXT」によると、1979-83年の写真から人家が建ち始めます。




---
F地点付近:

・高圧線鉄塔の真下に野馬土手の遺跡が残っている。

・この地点が北東への野馬土手の分岐点でもある。
別の調査「白井:冨士93-23(高圧線鉄塔) ~ 白井:冨士198-40(八幡神社)間」でも、途中に遺跡が残っている)











 
【←左:FのT分岐の北から、高圧線鉄塔を見る。右の駐車場の位置が、勢子土手であった】

















【→右:高圧線の鉄塔の下に、勢子土手の跡が残る。ここでT字状に別の勢子土手が北につながっていた】
















【←左:鉄塔を南側から見る】






・鉄塔の脇(北東)に、明治40年に建てられた「馬頭観世音」がある。【右→】




・鉄塔から南は、航空写真からわかるように、人家の両側が道路になっている。
 【←左】

・地理院地図の1974-77年の写真から推測すると、両側の道路を含んだ幅が野馬土手の幅と推測される。





---
G地点付近:
・木下街道に接した場所まで続く。

【←交差点から、北側を見る】

1825(文政8)年6月29日(旧暦)、渡辺崋山が通過した街道はこの道でしょうか。
それとも、H地点
の旧街道(?)でしょうか。



【←交差点の南側を見る】
・その道路の反対側(南側)は、北側と違い、道路が両方ともない。

・地理院地図の1974-77年の写真には、野馬土手の痕跡が見える。一箇所の民家の屋根も見える。
(現在のアパートの位置に)

・野馬土手と道路が交差するこのポイントには土手が無く、馬を追うときのみ「柵」をしたと想定します。







---
H地点付近:



・木下街道の南に並行して道があり、北東に八木ケ谷まで続いています。


・この細い道が、白井市と船橋市の境界の道路となっています。【写真→】

・このポイントは、鎌ヶ谷市も接しています。

・もしかすると、この細い道が、「旧 木下街道」ということはないでしょうか?

・江戸のいずれかの時代に、木下街道の整備をし、民家の裏の農地側に広い道路を確保したのではと推測します。

・かつては大きな「谷津」があり、この二重川の支川を約500m下った地点は、北側が中野牧、南側が下野牧との境界となっていました。二重川は、印旛沼の流域です。

<完>

2013/11/13

中野牧の野馬土手の現在位置を推測する

小金中野牧の「野馬土手」が、現在のどの場所にあったかを推測してみました。
(改:2013.11.13←主にG-Mapsの土手位置の修正←初版:2013.8.26)

利用したものは、以下の3つです。
歴史的農業環境閲覧システム
(迅速測図 資料:明治初期~中期に作成された「迅速測図」と、現在の道路、河川、鉄道、土地利用図とを比較したもの)
国史跡下総小金中野牧跡保存管理計画書(案)
(2008年、鎌ケ谷市教育委員会。鎌ケ谷市に残る中野牧の土手保存の計画書中、「18世紀末以降の中野牧の推定復元図」
小金牧(こがねまき)
(中野牧を中心に情報の確認・追加)
 
これをもとに、当時の野馬土手・関連施設などを、現在のGoogle-Maps地図上に描いたのが、下図です。
 
・当時のほとんどの土手は、現在は道路になっていると予測しましたが、
・民家が建っていたり、
・区画整理などで、まるで変わってしまったり、
・少しづつ敷地を広げた??・・土地争い?? ・・なのかな?
・・・
いろいろ分析してみると面白そうですが、「航空写真」で見ると、そのあたりが特に楽しめます。
 
「赤色・緑色・茶色の線の個所」が野馬土手関連。
「濃い赤の線」は残存している野馬土手。
「ピンクのピン」は木戸のあった場所。
「青色の線」は牧の境にもなっている谷津の場所。
「水色マーク」は水のみ場。

現地を見ながら、少しずつ修正していくつもりです。 
 

⇒⇒ より大きな地図で 野馬除土手(のまよけどて) を表示
全体を一度に見るにはこちらが良いのでは(200以上のポイントが一括表示)・・実験中
---
●野馬土手(馬土手、ぬま土手等とも呼ぶ)
野馬土手には、構築目的と形状から、野馬除土手、勢子土手、囲土手等の種類がある。

 

 ●野馬除土手(野馬堀とも呼ばれる)
  野馬除土手は馬が逃げ田畑を荒らし集落への侵入を防ぐための、牧の周囲と集落の周辺の
  土手で、通常、二重で間は堀状。

 ●勢子土手(中土手とも呼ぶ)
  勢子土手は、牧内の馬の集約捕獲時の誘導路と牧を仕切る区画。

 ●囲土手/大込(おおごめ)土手/御囲(おかこい)
  囲土手は、牧の一部を囲む土手の総称。
  ・大込土手は、野馬を捕込に効率良く追い込むため、捕込の前面に土手を作り取り囲むもの
  ・御囲は、幕府騎乗用等の良馬を集め飼育する囲土手。中野牧には2箇所の御囲があった。
   (鎌ヶ谷市域には御囲はなかったもよう。くぬぎ山と常盤平にあったか?)
    ・くぬぎ山周辺は、将軍様の御馬が引退後に余生を送る御囲(おかこい)のあった。
     http://www.toukatsujin.com/nakanomaki.html
    ・常盤平の前身「金ヶ作」は江戸時代以降の村名。作は柵や土手を意味し、御囲場とも
     呼ばれて周囲を、野馬除土手が囲んでいたといいます。
     http://www.fukudaks.com/a/gokou/g-m.htm

 ●捕込とっこめ(鎌ヶ谷では馬込と呼んでいた)
  捕込は野馬を捕獲・分別する土塁状の施設
---
◆18世紀末以降の中野牧の推定復元図


---
◆国指定史跡 下総小金中野牧跡(捕込:とっこめ)
  指定年月日 平成19年2月6日
  所 在 地 鎌ヶ谷市中沢2丁目377-9番地他
 ○小金牧中野牧跡・捕込(とっこめ)【解説の図画多数あり、わかりやすい】



小金牧wikipedia  中野牧、下野牧の残存場所がマークされています。



-----------
●今後、展開・関連に有効そうなサイト
・船橋
八木が谷方面を歩こう その4
八木が谷方面を歩こう その3
 ・八木が谷方面を歩こう その2

八木が谷方面を歩こう その1 
八木が谷発見塾 その3 
八木が谷発見塾 その2 
八木が谷発見塾 その1 
八木が谷 - Wikipedia
船橋市|八木が谷地区の歴史
船橋市|船橋の歴史
 
白井市白井市歴史・文化財
白井市の神社仏閣・・・散歩道の歴史
 
柏の歴史 - 柏市
 
松戸市公式ホームページ/歴史・文化
 
市川市 - Wikipedia
下総台地と大町自然観察園
 
鎌ケ谷市 - Wikipedia
鎌ケ谷市役所【歴史
 
下総台地 - Wikipedia
 
かまがや散歩:鎌ヶ谷の野馬土手(e氏)
 
 

2013/08/21

利根川の改修:明治以降

●利根川・江戸川の現状と課題 (PDF) - 国土交通省 関東地方整備局
http://www.ktr.mlit.go.jp/tonejo/seibi/kouchoukai/vol1/5.pdf
●暴れ川!坂東太郎-利根川水との闘い - 千葉県
http://www.pref.chiba.lg.jp/bousai/bousaishi/documents/dai1syou_3.pdf

●明治33年 利根川改修計画 流量配分図⇒利根下流:江戸川の流量比率. 2.86:1。 
明治43年洪水後 利根川改修改訂計画. 流量配分図⇒利根下流:江戸川の流量比率. 1.5:1
http://www.pref.gunma.jp/contents/000073046.pdf

2013/08/15

釜ケ原(鎌ヶ谷)の位置、分水嶺、利根川の東遷など

釜ケ原(鎌ヶ谷)の位置と分水嶺・遺跡など について、図示してみました。
<地図で遊ぶ・・Googleの地図を並べながら見て・・歴史を、地形を楽しんでください>

           より大きな地図で 日本・利根川・荒川・房総の分水嶺 を表示
              ↑↑↑クリックすると、別ウィンドウでGoogle地図が表示されます。

1:釜ケ原(鎌ヶ谷市)は、千葉県の北西部、北総の台地にあって、松戸市、柏市、白井市、船橋市、市川市に囲まれています。



2:この釜ケ原(鎌ヶ谷市)の各地に降る雨は、北側は手賀沼・印旛沼経由で太平洋に向かい、南側は真間川・海老川を経て東京湾に流れ込みます。つまり「分水嶺=分水界」上にあるわけです。(by市:鎌ヶ谷の河川



3:この分水嶺を南に向かうと・・
千葉・房総の分水嶺」があります。

千葉の分水嶺」とは、千葉県北部の「利根川方面と東京湾方面への分水の境」。
房総の分水嶺」とは、房総半島の「太平洋と東京湾の分水の境」のことで、 「房総分水嶺」の出版物もあります。
(房総半島の南西端「須崎」から始まり、半島の背骨を北東にたどり、茂原市の西にある「権現の森」「六地蔵」までの分水嶺)・・(次の4:の地図も参考にしてください。)
「房総分水嶺―半島の背骨を歩く』忍足 利彦(著) 崙書房出版


4:一方、北に向かう分水嶺をたどってみると、まず「千葉県」「埼玉県」「群馬県」「栃木県」「茨城県」が接している付近で、歴史的な大工事「利根川の東遷」の場所に到達します。下図の2重丸のポイントです。



5:約1000年前の関東平野の水の流れを下図に示しますが、手賀沼と太日川にはさまれた現在の鎌ヶ谷(地図では下総府)を上流にたどってみると、利根川や渡良瀬川が西にあり、それらの川は東京湾に流れ出ていたことがわかります。(by net


 
6:つまり、鎌ヶ谷を走る「本来の東京湾:太平洋の分水嶺」は、思川の東側を北上し、日光・中禅寺湖の南を通り、尾瀬沼の東にある黒岩山で、日本の「中央分水嶺(太平洋と日本海を分ける分水嶺)」に到達していたのです。
日本の中央分水嶺と房総分水嶺
(日本・利根川・荒川・房総の分水嶺 を表示 ・・別ウィンドウでGoogle地図が表示されます)


7:徳川幕府の時代、利根川・渡良瀬川・荒川などの洪水対策のための治水や、川を用いた物資運搬などから、1621年~1654年(通水成功)に赤堀川などを開削し、利根川・渡良瀬川の流れを、江戸川(東京湾に流れ込む)から、常陸川(銚子に流れる)に 向ける大工事を行ったのです。

ただし1954年の赤堀川の川幅は18mほどしかなく、主に銚子から江戸への物資輸送水路を目指したもののようです。利根川・渡良瀬川のほとんどの水は、現在の江戸川に流れていました。
赤堀川の川幅は、1760年49m、1809年70m、1871年(明治4年)赤堀川バイパス完成と、多くの水は銚子方面に流れるようになりました(現在は700mもあります)。
1877年の渡良瀬川上流の足尾銅山の本格採掘以降、鉱毒被害が下流の農作物に及びだし、1898年には江戸川への流入制限を強化したので、利根川は完全に東遷。1906年渡良瀬遊水池設置で鉱毒遮断・洪水防止なども行われました。下に関連図(by net)を示します。

これを「利根川の東遷事業」と呼びます。

8:この「利根川の東遷事業」の結果、鎌ヶ谷を走る「江戸時代以降の東京湾:太平洋の分水嶺」は、上流では利根川:荒川の境が分水嶺となり、熊谷市と深谷市の間を東に向かい、秩父山地を通り、三国山(御巣鷹山の南、三国峠の北)で、日本の「中央分水嶺(太平洋と日本海を分ける分水嶺)」に到達するルートに変わったのです。


9:群馬県全体、栃木県南西部、埼玉県北部(面積では日本全土の2%以上、群馬県の約1.5倍)の水の流れを、東京湾から太平洋に直接流すように変えたわけですから、東京湾や千葉・茨城の自然環境も大きく変わったことでしょう。
 特に東京湾の水質・養分などはかなり劣化したことでしょう。

 近年の利根川と江戸川への流量配分を調べてみましたが、
利根川(取手)10,500立方m/s、江戸川(松戸)7,000立方m/s(40%) という数値(洪水時の目標?)と、分派率はおおむね20-30%という数値(通年ピーク時実績?)があります。 (net)
------------

10:奥東京湾、古鬼怒湾
 5:で表した約1000年前をさらにさかのぼる、約5000年前の地図(右図)と、現代の地形図をもとに海面が約13m上昇したと想定した場合の海岸線(左図)を比較してみました。(by net) (by net)

そこには、過去に存在した「奥東京湾」「古鬼怒湾」の形が浮き上がって見えています。



11:氷河期は海水面が下がり(陸が広がり)、氷が溶けると海水面が上がるように、海岸線が移動しますが、その関連を表したのが下図です。(by net)

12:古代の鎌ヶ谷周辺にはいくつもの遺跡や貝塚がありますが、海抜が約20mほどの場所にあります。潮の満ち引きがありますから、その時代、海面は今より約15mほども上昇した状態だったと想定できるのです。(by 鎌ヶ谷市郷土資料館)


「氷河の侵食谷」 と 「河川の侵食谷」 と 「谷津/谷戸」 の違い 谷津の成り立ち も参考に>
12:Google-Mapsに、以上の情報を書き込んでみました。
赤い日本の大分水嶺と、青い房総半島への分水嶺。利根川東遷の結果、緑色の線の北側の
「群馬県の1.5倍ほどの広大な面積の雨水が、東京湾から、銚子に向かって流れを変えた」のです。
かなりたくさんの環境が、大きく変化したことでしょう。その影響なども今後分析・推測していきたいものです。

地図を部分拡大したり、縮小して全体像を見るなど・・想像しながら楽しんでください。


より大きな地図で 日本・利根川・荒川・房総の分水嶺 を表示


2013/04/29

佐津間、粟野地域はかつて「相馬氏」が支配していた・

野馬追のいまむかしガイドブック:by南相馬市

http://www.city.minamisoma.lg.jp/index.cfm/24,6697,139,html

●原発被災者「集団移住を」=相馬藩主子孫「国替え」呼び掛け 

相馬野馬追 総大将・相馬行胤氏
全国民俗芸能保存振興市町村連盟HP より転載)

原発被災者「集団移住を」=相馬藩主子孫「国替え」呼び掛け
http://backnumber.dailynews.yahoo.co.jp/?m=7692954&e=fukushima_1np_evacuation
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130427-00000053-jij-soci
時事通信 2013年4月27日(土)14時50分配信

・・かつて福島県相馬市、南相馬市、浪江町、双葉町などを領地とした旧相馬中村藩主の子孫・・
・・関東からの「国替え」で福島へ移った相馬家の歴史・・

◆行胤さんは旧相馬中村藩主の子孫
相馬行胤さんからのメッセージ_110327 - YouTube
相馬中村藩主 - 千葉氏の一族
相馬家って? - 柏台牧場


★佐津間、粟野地域はかつて「相馬氏」が支配していた・・
 大治5年(1130年)頃から・・14世紀頃まで?

 以降もつながりがあったらしい
 例:1801-1825年に中野・下野両牧に放たれた馬の記録 ・・東北地方算出の馬が多い

 「相馬氏と鎌ヶ谷市域」 第39回市民まつりのテーマに関連した歴史講演(h25.4.5)
  鎌ヶ谷市郷土資料館 学芸員:立野晃氏 資料