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2015/02/14

稲荷前三差路、稲荷西交差点・・付近に稲荷神社はあったか? バス停の名称?

船取バイパスに、「初富稲荷神社入口」という バス停を最近見つけた。
・船橋新京成バスの「平日深夜運行」のバス停である。
(船橋駅北口・・⇒新鎌ヶ谷駅⇒・・五本松小学校⇒このバス停⇒東武分譲地⇒鎌ヶ谷大仏)

★疑問点は、
A:このバス停の名称のとおり、「初富稲荷神社」は近くにあるのか?

 ∵初富駅付近にある「初富稲荷神社」以外に、もうひとつ神社があるのか?/あったのか?

 ∵ 初富稲荷神社は初富駅付近にあって、ここからは歩いて10分以上離れているのに、そんな名前を付けるのは変。

 ∵初富駅付近にある「初富稲荷神社」(鎌ヶ谷市初富本町1-4 =字は、富栄)の石碑に「以前違う場所にあり、移転した」との記述はない。

B:この南にある「稲荷前三差路」、「稲荷西交差点」の名から、神社があったと推測してつけたのか?

C:「稲荷」の名は、なぜこの周辺の土地に付いているのか?

関連する地図は以下である。
https://www.google.co.jp/maps/search/%E9%8E%8C%E3%83%B6%E8%B0%B7%E5%B8%82%E3%80%80/@35.7669599,140.0079317,16z


<小字-区分図>
⇒2015.2.6鎌ヶ谷市郷土資料館で問合せ。

C:「稲荷」の名は、なぜこの周辺の土地に付いているのか?
⇒ans:
・右図のように、この付近の字が「稲荷前」である。
・なぜ「稲荷前」という字が付けたかを推測すると・・以下の3つが推測できる。

初富稲荷神社(鎌ヶ谷市初富本町1-4 =字は、富栄)の前なので。

②近くにある右京塚神社(鎌ケ谷市 右京塚7丁目60番地 )もやはり稲荷神社なので。

③二つの稲荷神社の前/間の場所なので。


B:あの三叉路付近が「字 稲荷前」なので、「稲荷前三差路」と名づけたのではないか。

  ・その後、船取バイパス道路が作られ、その西側の交差点なので「稲荷西交差点」と名づけたのだろう。

A:あの三差路付近に神社があったとの記録はない。
 中野牧の内側(牧場地)なので、江戸時代に両方の稲荷神社すら存在しなかった。

<結論>
・あの三差路付近に、稲荷神社はなかった
・あのバス停の「初富稲荷神社入口」という名は、歴史的には根拠がなさそう。
 ・・初富エリアにある、稲荷前という地名から・・「昔、神社があったらしいと」勘違いし・間違って命名したのではないだろうか??
 ・・「山屋食品・鎌ケ谷工場前」 とか 「南初富郵便局西」 とかが妥当な名称では??

 

<関連情報>

・初富稲荷神社は、明治2年(1869年)に創建された。明治初期の旧幕府の武士による初富地区の開拓が始まり、ご守護と繁栄を願うため創られた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%9D%E5%AF%8C%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE

・右京塚神社は、明治4年(1871年)に創建された。
その付近(右京)に塚があったことから、「字 右京塚」と地名が付けられたらしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B3%E4%BA%AC%E5%A1%9A%E7%A5%9E%E7%A4%BE
             以上

2014/09/29

鎌ヶ谷周辺の構造線(中央+柏崎・千葉)について

鎌ヶ谷周辺には、「中央構造線(右図の赤)」と「柏崎・千葉構造線(図の青色の右側)」が走っています。

・中央構造線(ちゅうおうこうぞうせん)は、日本最大級の断層系。関東から九州へ、西南日本を縦断する大断層系で、1885年明治18年)にハインリッヒ・エドムント・ナウマンにより命名される。中央構造線を境に北側を西南日本内帯、南側を西南日本外帯と呼んで区別している。

中央構造線(wiki)
大鹿村中央構造線博物館

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柏崎・千葉構造線は、フォッサマグナ(=中央地溝帯・大地溝帯とも呼ばれる面であり、西側の境界線縁が「糸魚川静岡構造線」である) の北東の境界線縁の断層。日本の主要な地溝帯の一つで、地質学においては東北日本西南日本の境目とされる地帯。

フォッサマグナのエリアは浅い海であり(右図参照)、2,500万年前以降の新生代 に堆積物火山噴出物で次第に満たされた。数百万年前、東北日本が東から圧縮されることで隆起し中央高地日本アルプスとなった。この新しい地層の両側(=4 - 5億年前のアジア大陸縁辺の岩盤)では全く異なる時代の地層が接している。
フォッサマグナ(wiki)
日本列島#成り立ちと現在の地形(wiki)


2014/09/26

粟野の森周辺:歴史的航空写真

「地図・空中写真閲覧サービス」による森の移り変わり (2014.9.26作成)
年を指定:鎌ヶ谷市(森)は 1944/09/24(昭19)以降。高解像度の映像あり。
検索方法(1944年の映像の例)
http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do
・「1944年まで」、「空中写真」⇒「鎌ヶ谷周辺を拡大」
・「初富付近クリック」⇒「高解像度表示」 でキャプチャ。
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●1944/09/24(昭19)陸軍撮影:森の右側の黒い影は、フィルムを押さえた金具の跡らしい(「高解像度表示」 で、森部分がやっと見える)。
森には境界線の針葉樹が見えるが、他に余り木々は見えない。燃料にしたためだろう。(9月撮影なので木があればもっと黒く見えるはず)。西からの野馬除け土手の木が見える。

 
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●1946.02.13(s21):森の境界線の針葉樹がはっきり見える。現在のシラカシの極相林個所に若干の潅木が見える。森北東の場所にはほとんど木が見えない。西からの野馬除け土手の木が見える。


 
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●1947.11.28(s22):):森の境界線の針葉樹がはっきり見える。現在のシラカシの極相林個所、森北東の場所とも低木らしきものが見えだす。森内の道がはっきり見える。水田がくっきりと見える。西からの野馬除け土手の木が見える。

 

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●1961.3.23(s36):):森の境界線の針葉樹がはっきり見える。現在のシラカシの極相林付近に茂みが見え出す。北東の場所は低木が見える。左上から右下に、道路のように木々を刈り取った跡が見えるが、高圧線か?。水田がくっきりと見える。西からの野馬除け土手の木が見える。

 
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●1966.10.19(s41):):森の境界線の針葉樹がかろうじて見える。現在のシラカシの極相林付近に茂みは大きくなってきた。北東の場所を含め、全体に木が密集してきた。左上から右下の道路のような跡が薄くなってきた。水田はまだ全面に作られている。西からの野馬除け土手の木が見える。
飛行場南の道路が整備された。安田学園のグランドができた。




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●1979.11.14(s54):カラー映像:森の境界線の針葉樹がかろうじて見える。シラカシの極相林付近に茂みは大きくなってきたが、まだまばら。北東の場所を含め、全体に木が密集してきた。落葉樹と常緑樹が区分できる。左上から右下の道路のような跡はほとんど見えなくなった。水田はほんのわずかを残し、畑?雑草になった。西からの野馬除け土手の木がわずかに見える。
粟野コミセンの場所にプールが作られ、家作/アパートも作られた。北の畑に民家が建ちだす。国道464の計画場所が見えてきた。市制公園の野球場・テニスコートが見える。

 
 


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●1984.10.22(s59):カラー映像:森の境界線の針葉樹がほとんど判らない。シラカシの極相林付近の茂みはかなり大きくなってきた。北東の場所を含め、全体に木が密集し育ってきた。落葉樹と常緑樹の区分は判りづらい。水田はすべて畑?雑草になった。埋め立てした場所が見える。。西からの野馬除け土手の木がほとんど見えない。
国道464の工事が始まった。市制公園が東に広がった。


 
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●1989.10.18(h1):カラー映像:森の境界線の針葉樹はほとんど判らない。シラカシの極相林は密集してきた。北東の場所を含め、全体に木が密集した。水田の場所は雑草地のようだ。埋め立てした場所が見える。西からの野馬除け土手の木がほとんど見えない。
国道464が北側のみ開通して車が走っている。市制公園北に建物が建ちだす。

 
 
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●2001.12.31(h13):カラー映像:森の境界線の針葉樹はほとんど判らない。シラカシの極相林は密集。北東の場所を含め、全体に木が密集。常緑樹がはっきり見える。水田の場所は雑草地のようだ、竹林?も見えだす。西からの野馬除け土手の木がほとんど見えない。
国道464は南側(西行き)の工事が始まった。市制公園北に建物がかなり建つ。ストックボックスも見える。 

 
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●2008.5.6(h20):カラー映像:森の境界線、シラカシの極相林など全体に木が密集。常緑樹と落葉樹が区別できず。大津側沿いの雑草地に竹林が広がる。埋め立てした個所に栗林が見える。西からの野馬除け土手の木がほとんど見えない。
国道464は南側(西行き)が開通した。市制公園北に建物、ストックボックスがハッキリ見える。

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●分析:ほとんどの高木は、60-70年経っている。境界線の針葉樹はそれ以上経っている。
⇒問題点:それら老木の萌芽更新は難しい。シラカシの極相林の林床に光が届かない。・・その他・・列記していこう。

2014/01/29

「白井:冨士93-23(高圧線鉄塔) ~ 白井:冨士198-40(八幡神社)間」の野馬土手の現状


「鎌ヶ谷:初富小学校北 ~ 白井:冨士 間」の野馬土手の現状 で調べた、「白井:冨士93-23(高圧線鉄塔)」の場所から、北東に延び、「 白井:冨士198-40(八幡神社)間」の間に存在した野馬土手について、 位置、現状などについて調べてみました。
中野牧の全体像は、http://kamagahara.blogspot.jp/2013/08/blog-post_26.html を参照ください。
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1:Google-Mapsで見るその付近の地図と野馬土手の位置

【中心から、右上に延びる勢子土手の調査】

●より大きな地図で 野馬土手(のまどて) を表示
全体を一度に見るにはこちらが良いのでは(200以上のポイントが一括表示)・・実験中
【↑新しい窓で開いて、本文と同時に見ると理解しやすいでしょう】

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2:明治初期の迅速測図と、現在地図とのオーバレイ図

●下の左図は「迅速測図」で、明治13年(1880年)に測量されたものです。
・2重の太線は野馬土手で、「イ」のマークがあることから「一重の土手=勢子土手」だと判ります。
・野馬土手のこの区間は、約600mの直線で、海抜は約30mです。

・「一本椚牧」は江戸中期(享保8年1723年頃)に「中野牧」に吸収されたため、以降は中野牧の勢子土手です。

・左下のT字のポイント「土手の接点の高圧線鉄塔」から、右上の低地(当時は谷津だったと思われる低地)まで続いています。
・この右上のポイントの直前には、現在は「八幡神社」があります。
・この右上の地点は谷津、そこから神埼川の支川となり、船橋市小室付近で二重川と合流、神埼川となり印旛沼に向かいます。
・その谷津を約500mほど下った地点は、中野牧の「野馬除土手」があり、当時は中野牧と白井村の境になっていました。

●下の右図は「歴史的農業環境閲覧システム」で、
「迅速測図」と「基盤地図情報25000(現状の概略)」をオーバレイした図です。


【↑左=基盤地図情報25000とのオーバレイ図、↑右=迅速測図】


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3:各地点ごとの当時と現状の比較

南西から北東の各地点(F~I~J~K)ごとに「当時の野馬土手」と「現在の状況」を比較していきます。
【↑左図=地点F~I~J~Kの全体像】                  【↑右図=市道のNO資料】
・市道の番号については「白井市道路線網図 」 から入手しました。

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F地点付近:
 
・高圧線鉄塔の真下に野馬土手の遺跡が残っている。

・この地点が
「鎌ヶ谷:初富小学校北 ~ 白井:冨士 間」の野馬土手の現状 」の調査情報との、野馬土手の分岐点である。
 
 















【↑:鉄塔の基礎の盛土が野馬土手の跡】
                                                         

・地理院地図の1974-77年の写真には、F~iH地点に野馬土手が連続して残存しています。【↑】
・野馬土手の北側を見ると、1880年(明治13年)の迅速測図には道路はありませんでしたが、1974-77年には、道路ができています。

・「電子国土Web.NEXT電子国土WebNEXT」によると、1979-83年の写真から人家が建ち始めます。


【←:鉄塔付近から北東を見る】
                                   





 ---
i 地点付近:



・i の地点に野馬土手が一部残存しています。







【←:一部残存】





【←:i の地点からFの鉄塔を見る】










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J地点付近:



・現在、八幡神社の直前まで、道の両側に人家はほぼ切れ目無くつながっています。【↑】

・地理院地図の1974-77年の写真では、半分以上は野馬土手だったと観察されます。【→】














・八幡神社直前から、南西に鉄塔を遠望する。
この商店側の人家の位置に、野馬土手はあった。【→】











---
K地点付近:




・道路の突き当りが「八幡神社」です。
【←】










・神社側から見た直線道路。遠方に鉄塔が見えるはず。
【←】











・この「八幡神社」の境内に、「白井開拓30年記念碑」があります。

・その裏面の文に、
「昭和24年(1949年)に、この周辺台地が37名の入植者に売り渡され、その安全・豊穣・繁栄を祈願して八幡神社を建立した。その改修をし、開拓30年を記念して碑を建てた」とあります。

・確かに明治13年(1880年)の「迅速測図」には、この神社は記載がありません。

・左手には「清田源三郎翁顕彰碑」で、当時鎌ヶ谷町に住んでいた人物。所有の山林、通称源内山130ヘクタールを開放したとあります。




・建立者として名を連ねているのは27名ですから、この30年の間に10名の方は何らかの事情でこの地を去ったのでしょう。

・アイウエオ順だと書かれていますが、記載された名前はかなりランダムです。多分寄付金額の差で順序が入れ替わっているのでしょう。

・上段の右から、緑川、鈴木、中島、石井、三橋、長谷川氏あたりが高額な方たちでしょう。


★「開拓の碑 冨士(千葉県白井市)」・・きいちさん
の「戦後開拓地」情報に、この碑に関連する情報が詳しく書かれています。
(ただし、八幡神社から南西に向かった、道路左側が防風林跡で・・ と書かれております。当初の「野馬土手」は、開拓の時代には「防風林」として貴重な林だったのかもしれません。)


<完>

「鎌ケ谷の野馬土手」e氏 著作(~2018年)も参考に

2013/11/19

「鎌ヶ谷:初富小学校北 ~ 白井:冨士 間」の野馬土手の現状

鎌ヶ谷:初富小学校北(鎌ヶ谷市東初富1-17-3付近)から 白井:冨士(白井市冨士117付近) の間に存在した野馬土手について、 位置、現状などについて調べてみました。
中野牧の全体像は、http://kamagahara.blogspot.jp/2013/08/blog-post_26.html を参照ください。
---------

1:Google-Mapsで見るその付近の地図と野馬土手の位置


●より大きな地図で 野馬土手(のまどて) を表示
全体を一度に見るにはこちらが良いのでは(200以上のポイントが一括表示)・・実験中
【↑新しい窓で開いて、本文と同時に見ると理解しやすいでしょう】

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2:明治初期の迅速測図と、現在地図とのオーバレイ図

●下の左図は「迅速測図」で、明治13年に測量されたものです。
・2重の太線は野馬土手で、「イ」のマークがあることから「一重の土手=勢子土手」だと判ります。
・野馬土手のこの区間は、約1kmの直線で、△マークの30.959mの基準点から見通せたようです。

・左上の野馬土手は、上が「中野牧」で下が「一本椚牧」の境の土手でしたが、一本椚牧は江戸中期(享保8年1723年頃)に「中野牧」に吸収されたため、以降は中野牧の勢子土手です。

・左上のT字のポイント「土手の接点」から、右下の県道59号線=木下街道=を越え、すぐ右下にある道路(同時に、当時は谷津だったと思われる低地)まで続いています。
・この右下のポイントは現在は3市の境界で、上は白井市冨士118-43 、下は鎌ヶ谷市東鎌ケ谷2-7-43、右は船橋市高野台2-1-8 です。
・この右下のポイントは、、印旛沼流域の二重川の支川で、その谷津を約500下った二重川が、中野牧と下野牧の境になっていました。

●下の右図は「歴史的農業環境閲覧システム」で、
「迅速測図」と「基盤地図情報25000(現状の概略)」をオーバレイした図です。
・迅速測図作成の時期が明治初期であり、測量技術・期間なども十分でないため、オーバレイ図の詳細位置関係については誤差が発生しています。


【↑左=迅速測図、↑右=基盤地図情報25000とのオーバレイ図】

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3:各地点ごとの当時と現状の比較

北西から南東の各地点(A~H)ごとに「当時の野馬土手」と「現在の状況」を比較していきます。




【↑左図=地点A~Hの全体像】                      【↑右図=市道のNO資料】
・市道の番号については、「鎌ケ谷市認定路線網図」、「白井市道路線網図 」 から入手しました。

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A地点(T分岐)付近:

・鎌ヶ谷市東初富1-17-3付近。
・初富小学校の北。
・東初富テニスコートの東。

・鎌ヶ谷市道2528号線が、勢子土手の西に沿って通っているが、地理院地図の1974-77年の写真にはこの細い道路は確認できません。あぜ道程度だった可能性があります。

・勢子土手がT字に分岐していたはずの場所付近には、現在は南東に向かう土手は見えない。

・鎌ヶ谷市道2528号線から、市道2523号線の間に小さな公園(通称タイヤ公園)があり、歩いて通過できる。

・以下のF地点からH地点の、高圧送電鉄塔の延長にあり、地図上の推測からも、タイヤ公園の南の家付近がT字の分岐点と想定します。

・鎌ヶ谷市東初富1-15,16,17の場所の土地・建物は、「電子国土Web.NEXT電子国土WebNEXT」の1974-77年の時点にはすでに建造されており、野馬土手を更地にして区画整理したものでしょうう。









【↑鎌ヶ谷市道2528号線の東に沿って、勢子土手があったが、現在は左手に一部残存している
。正面の小さな公園(通称タイヤ公園)の南側で、土手はT字に分岐していたと想定できる】



【↑小さな公園(通称タイヤ公園)の北に、野馬土手が残存している】


-----
B地点付近:

鎌ケ谷市東初富1丁目17−19付近市道17(0210)の間。















・地理院地図の1974-77年の写真によると、野馬土手の両側に道があった。現在は鎌ヶ谷市道2507のみである。
【右参照→】

・地理院地図の「明治前期の低湿地」には、ふたつの土手にはさまれた南西の土地(初富小学校側)は「低湿地とマーク」されています。
【↓左参照】

・この付近は鎌ヶ谷市野の河川資料によると、手賀沼(大津川)流域と、印旛沼(二重川)流域の境界=分水嶺であり、馬野土手の構築(江戸時代?)によって排水の悪い地区となったと推定します。

・分水嶺=峠をいくつも観察していると、その付近には沼や小さな池など、どちら方向に流れるべきか「悩む水の水溜り」が、できやすいのです。そんな場所に野馬土手=堤を作ったので、沼/湿地帯を発生させやすくしたはずです。

 



















【↑左図:緑部分が、明治前期の低湿地】 【↑右図:B地点から南東を見る。遠方の高圧線が直線に重なっている】

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C地点付近:

・鎌ヶ谷市と白井市の境界になっている。

・鎌ヶ谷市道2507号線と、鎌ヶ谷市道17(0210)号線、白井市道00-008号線の交差点。

・野馬土手と道路が交差するこのポイントには土手が無く、馬を追うときのみ「柵」をしたと想定します。


<疑問点:海抜の差>
・迅速測図(2の地図)では、△マークを基点に測量しており、その高さは30.959mとなっている。
・現在の鎌ヶ谷市道の資料には、この交差点の海抜は28.8mとなっている。

・この差、2.159mは、野馬土手の高さであろうか?
(迅速測図の基点が土手の上としたら、ほぼその高さかもしれない)

---
D地点付近:


・白井市冨士151-2

・ロジュマン白井の敷地内(北)に遺跡解説がある。
【写真↓】










・ここは「野馬除土手 であり、中野牧と鎌ヶ谷村の草銭場を仕切る堤土手の役割を担っていたことが、当時の絵図から判明している」と書かれています。

・しかし明治13年の「迅速測図」には、「イ」のマークがあることから「一重の土手=勢子土手」のはずです。

・また、鎌ヶ谷市の資料「国史跡下総小金中野牧跡保存管理計画書(案)」からも、勢子土手とあり、鎌ヶ谷村の草銭場との認識は間違いと思われます。






























【↑上の写真が現状で、約20mがフェンスで囲まれています】



・さらにその奥に約20m、マンション敷地内にも土手形状が残存しています。
【→フェンス外:南東方向】










・ロジュマン白井の敷地の南、ロイヤルホームセンタ白井店の駐車場と、ばんどう太郎白井店駐車場から見る。
















【↑左:ロイヤルホームセンタ白井店の駐車場から見た北側の写真。遠方、ロジュマン白井の北に勢子土手の残存が見える。勢子土手は手前の緑の部分にあった】
【↑右:ばんどう太郎白井店駐車場から見た南側の写真で、勢子土手は右手の盛り土側にあったと推測できまる】



・地理院地図の1974-77年の写真によると、C~D~E地点には野馬土手がありました。

C地点には高圧線鉄塔の影があり、現在の位置と同じです。

・競馬場らしきトラックが、野馬土手の西側に広がっています。
【←左参照】









---
E地点付近:


・野馬土手と道路が交差するこのポイントには土手が無く、馬を追うときのみ「柵」をしたと想定します。


・この交差点から南に向かう道は、見事に直線。その跡地に現在人家が並んでいます。

・野馬土手の東側のみに道がある。




・鎌ヶ谷大仏駅~西白井駅の道路(白井市道00-007)と交差する場所から、北西を見る。勢子土手は、この民家の場所にあった。
【←左】








・鎌ヶ谷大仏駅~西白井駅の道路(白井市道00-007)と交差する場所から、南東を見る。勢子土手は、この道路の右、高圧線の下にあった。

・高圧線は道路と若干交差している。後の時代にできた高圧線鉄塔の設置場所は、推測するに、野馬土手の上に設置することに、隣接する競馬場が反対したためではないだろうか。
【←左】





・地理院地図の1974-77年の写真には、E~F~G~H地点に野馬土手が残存していました。

・当時、E~F地点までの東側には道路がありません。

F地点Gと地点には高圧線鉄塔の影があり、現在の位置と同じです。

・そこから南、F~G地点は両側に道路が見え、野馬土手が狭くなっています。ただし、人家はまだできていません。
【←左参照】

・「電子国土Web.NEXT電子国土WebNEXT」によると、1979-83年の写真から人家が建ち始めます。




---
F地点付近:

・高圧線鉄塔の真下に野馬土手の遺跡が残っている。

・この地点が北東への野馬土手の分岐点でもある。
別の調査「白井:冨士93-23(高圧線鉄塔) ~ 白井:冨士198-40(八幡神社)間」でも、途中に遺跡が残っている)











 
【←左:FのT分岐の北から、高圧線鉄塔を見る。右の駐車場の位置が、勢子土手であった】

















【→右:高圧線の鉄塔の下に、勢子土手の跡が残る。ここでT字状に別の勢子土手が北につながっていた】
















【←左:鉄塔を南側から見る】






・鉄塔の脇(北東)に、明治40年に建てられた「馬頭観世音」がある。【右→】




・鉄塔から南は、航空写真からわかるように、人家の両側が道路になっている。
 【←左】

・地理院地図の1974-77年の写真から推測すると、両側の道路を含んだ幅が野馬土手の幅と推測される。





---
G地点付近:
・木下街道に接した場所まで続く。

【←交差点から、北側を見る】

1825(文政8)年6月29日(旧暦)、渡辺崋山が通過した街道はこの道でしょうか。
それとも、H地点
の旧街道(?)でしょうか。



【←交差点の南側を見る】
・その道路の反対側(南側)は、北側と違い、道路が両方ともない。

・地理院地図の1974-77年の写真には、野馬土手の痕跡が見える。一箇所の民家の屋根も見える。
(現在のアパートの位置に)

・野馬土手と道路が交差するこのポイントには土手が無く、馬を追うときのみ「柵」をしたと想定します。







---
H地点付近:



・木下街道の南に並行して道があり、北東に八木ケ谷まで続いています。


・この細い道が、白井市と船橋市の境界の道路となっています。【写真→】

・このポイントは、鎌ヶ谷市も接しています。

・もしかすると、この細い道が、「旧 木下街道」ということはないでしょうか?

・江戸のいずれかの時代に、木下街道の整備をし、民家の裏の農地側に広い道路を確保したのではと推測します。

・かつては大きな「谷津」があり、この二重川の支川を約500m下った地点は、北側が中野牧、南側が下野牧との境界となっていました。二重川は、印旛沼の流域です。

<完>