2017/10/18

「かば田んぼ・かば畑」周辺の昔の写真、ぼろ橋

 市役所で「かまがや環境フェア」第9回のパネル展が行われた。
展示期間は、2017.10/4(水)~18(水)。

千葉銀行窓口の反対側壁面に移動しての展示であった。
「大津川を清流にする会」の展示パネルに、昔の写真が載っていた。

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2017/02/28

大津川(長谷津~ぼろ橋付近)の土地利用・環境変化など ・・航空写真から推測

大津川(長谷津~ぼろ橋付近)の土地利用・環境変化など ・・航空写真から推測
 


1946(s21)

1947(s22)


1961(s36)

1962(s37)

1966(s41)

1970(s45)

1975(s50)

1979(s54)

1984(s59)
 

拡大

1989(h1)

1992(h4)

2008(h20)

2014(h26)

2017(h29)


2015/11/25

橋本遺跡(縄文-早期=1.2万年前~中期=4500年前)


所在地:千葉県鎌ケ谷市粟野橋本691
緯度経度:35.788694, 140.004167
に「橋本遺跡」はしもといせき が 昭和53年度(1978年度)に発掘されたという

縄文(早期+前期+中期)のものだとのこと・・
 早期(約1万2,000 - 7,000年前)
 前期(約      7,000 - 5,500年前)
 中期(約      5,500 - 4,500年前)

遺跡からは、植物を調理する製粉用の石皿が見つかり、植物性食料が増えたらしい。

<早期(約1万2,000 - 7,000年前)>
・約1万3000年前から1万年前は、最後の氷期である晩氷期と呼ばれる。
・列島の多くが落葉広葉樹林と照葉樹林で覆われた。コナラ亜属やブナ属、クリ属など堅果類が繁茂するようになった。
・温暖化による植生の変化は、マンモスやトナカイ、あるいはナウマンゾウやオオツノジカなどの大型哺乳動物の生息環境を悪化させ、約1万年前までには、日本列島から、これらの大型哺乳動物がほぼ絶滅してしまった。

⇒縄文早期になると定住生活が出現。
⇒早期半ば頃までは住居とゴミ捨て場が設置されるが、住居を持たなかったり、季節によって移動生活を送るなどの半定住段階であると想定している。この段階は縄文時代の約半分の時間に相当する。
⇒縄文早期前半には、関東地方に竪穴住居がもっとも顕著に普及する。
⇒植物質食料調理器具である石皿、磨石、敲石、加熱処理具の土器も大型化、出土個体数も増加する。定住生活には、植物質食料、特に堅果類が食料の中心になっていたと想像されている。
⇒定住的な生活をするようになった縄文時代人は居住する周辺の照葉樹林や落葉樹林を切り開いたことにより、そこにクリやクルミなどの二次林(二次植生)の環境を提供することとなった。定住化によって、縄文人は、集落の周辺に林床植物と呼ばれる、いわゆる下草にも影響を与えた。ワラビ、ゼンマイ、フキ、クズ、ヤマイモ、ノビルなどの縄文人の主要で安定した食料資源となった有用植物が繁茂しやすい二次林的な環境、つまり雑木林という新しい環境を創造したことになる。縄文時代の建築材や燃料材はクリが大半

<前期(約7,000 - 5,500年前)>
⇒次いで早期末から 前期初頭には、定住が確立し集落の周りに貝塚が形成され、大規模な捨て場が形成される。

<中期(約5,500 - 4,500年前)>
⇒中期後半には、東日本では地域色が顕著になるとともに、大規模な集落が出現して遺跡数もピークに達する。



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http://www.isekiwalker.com/iseki/344493/
遺構概要
県文化財地図、包含地。大津川水系。<立地>台地上。<現況>宅地+畑。<保存状況>一部消滅。 
遺物概要
県文化財地図、縄文(早期+前期+中期)-縄文土器(夏島式+子母口式+黒浜式+諸磯a式+諸磯b式+浮島II式+加曽利E式)+打製石斧+石匙+磨石+敲石。 
発掘概要 
鎌ケ谷市送電線所在遺跡調査会
その他概要
県抄報昭和53年度。県文化財地図1997、23-50。 

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鎌ケ谷市の歴史http://homepage2.nifty.com/arakinokara/hgotoh3/kamagaya5/kamagayanorekishi.html

縄文時代の遺跡としては、鎌ケ谷警察署の北側にある
 林跡遺跡が最も古く、草創期の遺跡で隆起線文土器や
 石鏃(矢じり)、尖頭器(槍先)などが出土している。

 早期としては落山、東野、上葉貫台、★橋本遺跡がある。
★粟野保育園の西側にある橋本遺跡では植物を調理する
 製粉用の石皿が見つかり植物性食料が増えたと思われる


 前期の遺跡としては市制記念公園内にある五本松遺跡が
 あり、三軒の竪穴式住居跡が発見されました。炉や柱を
 立てる穴もあり、狩りの為の石器も多く出土されている。
 郷土資料館に展示してある竪穴式住居です。


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ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3


2015/10/08

粟野十字路(鎌ケ谷市)の変化

粟野十字路(県道18号:船取線)は、1965年(昭和40年)頃、直行に整備された。 
・1880年(明治13年)頃は、野馬土手で分断されていたが、1882年頃道(公道)ができた。
・1940年(昭和15年)頃は、宮(名称不明)を通過するクランクルートだった。
・1945年頃、ほぼ現在に近い道路整備されたが、まだ直線ではない。

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https://www.city.kamagaya.chiba.jp/sisetsu/kyoudoshiryokan/d-syashinkan/digital7.html
写真3<粟野十字路(昭和46年〈1971〉8月)>は市制施行直前に、「船取線」の北側から撮影した通称「粟野あわの十字路」です。


左折すると粟野保育園前の交差点を経て下総基地、右折すると東武線の踏切を渡って八坂やさか神社の前を通り入道溜にゅうどうだめの交差点を経て北初富方面にいたります。「祝 鎌ケ谷市制施行」の横断幕が掲げられています。

2015/02/14

稲荷前三差路、稲荷西交差点・・付近に稲荷神社はあったか? バス停の名称?

船取バイパスに、「初富稲荷神社入口」という バス停を最近見つけた。
・船橋新京成バスの「平日深夜運行」のバス停である。
(船橋駅北口・・⇒新鎌ヶ谷駅⇒・・五本松小学校⇒このバス停⇒東武分譲地⇒鎌ヶ谷大仏)

★疑問点は、
A:このバス停の名称のとおり、「初富稲荷神社」は近くにあるのか?

 ∵初富駅付近にある「初富稲荷神社」以外に、もうひとつ神社があるのか?/あったのか?

 ∵ 初富稲荷神社は初富駅付近にあって、ここからは歩いて10分以上離れているのに、そんな名前を付けるのは変。

 ∵初富駅付近にある「初富稲荷神社」(鎌ヶ谷市初富本町1-4 =字は、富栄)の石碑に「以前違う場所にあり、移転した」との記述はない。

B:この南にある「稲荷前三差路」、「稲荷西交差点」の名から、神社があったと推測してつけたのか?

C:「稲荷」の名は、なぜこの周辺の土地に付いているのか?

関連する地図は以下である。
https://www.google.co.jp/maps/search/%E9%8E%8C%E3%83%B6%E8%B0%B7%E5%B8%82%E3%80%80/@35.7669599,140.0079317,16z


<小字-区分図>
⇒2015.2.6鎌ヶ谷市郷土資料館で問合せ。

C:「稲荷」の名は、なぜこの周辺の土地に付いているのか?
⇒ans:
・右図のように、この付近の字が「稲荷前」である。
・なぜ「稲荷前」という字が付けたかを推測すると・・以下の3つが推測できる。

初富稲荷神社(鎌ヶ谷市初富本町1-4 =字は、富栄)の前なので。

②近くにある右京塚神社(鎌ケ谷市 右京塚7丁目60番地 )もやはり稲荷神社なので。

③二つの稲荷神社の前/間の場所なので。


B:あの三叉路付近が「字 稲荷前」なので、「稲荷前三差路」と名づけたのではないか。

  ・その後、船取バイパス道路が作られ、その西側の交差点なので「稲荷西交差点」と名づけたのだろう。

A:あの三差路付近に神社があったとの記録はない。
 中野牧の内側(牧場地)なので、江戸時代に両方の稲荷神社すら存在しなかった。

<結論>
・あの三差路付近に、稲荷神社はなかった
・あのバス停の「初富稲荷神社入口」という名は、歴史的には根拠がなさそう。
 ・・初富エリアにある、稲荷前という地名から・・「昔、神社があったらしいと」勘違いし・間違って命名したのではないだろうか??
 ・・「山屋食品・鎌ケ谷工場前」 とか 「南初富郵便局西」 とかが妥当な名称では??

 

<関連情報>

・初富稲荷神社は、明治2年(1869年)に創建された。明治初期の旧幕府の武士による初富地区の開拓が始まり、ご守護と繁栄を願うため創られた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%9D%E5%AF%8C%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE

・右京塚神社は、明治4年(1871年)に創建された。
その付近(右京)に塚があったことから、「字 右京塚」と地名が付けられたらしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B3%E4%BA%AC%E5%A1%9A%E7%A5%9E%E7%A4%BE
             以上

2014/09/29

鎌ヶ谷周辺の構造線(中央+柏崎・千葉)について

鎌ヶ谷周辺には、「中央構造線(右図の赤)」と「柏崎・千葉構造線(図の青色の右側)」が走っています。

・中央構造線(ちゅうおうこうぞうせん)は、日本最大級の断層系。関東から九州へ、西南日本を縦断する大断層系で、1885年明治18年)にハインリッヒ・エドムント・ナウマンにより命名される。中央構造線を境に北側を西南日本内帯、南側を西南日本外帯と呼んで区別している。

中央構造線(wiki)
大鹿村中央構造線博物館

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柏崎・千葉構造線は、フォッサマグナ(=中央地溝帯・大地溝帯とも呼ばれる面であり、西側の境界線縁が「糸魚川静岡構造線」である) の北東の境界線縁の断層。日本の主要な地溝帯の一つで、地質学においては東北日本西南日本の境目とされる地帯。

フォッサマグナのエリアは浅い海であり(右図参照)、2,500万年前以降の新生代 に堆積物火山噴出物で次第に満たされた。数百万年前、東北日本が東から圧縮されることで隆起し中央高地日本アルプスとなった。この新しい地層の両側(=4 - 5億年前のアジア大陸縁辺の岩盤)では全く異なる時代の地層が接している。
フォッサマグナ(wiki)
日本列島#成り立ちと現在の地形(wiki)


2014/09/26

粟野の森周辺:歴史的航空写真

「地図・空中写真閲覧サービス」による森の移り変わり (2014.9.26作成)
年を指定:鎌ヶ谷市(森)は 1944/09/24(昭19)以降。高解像度の映像あり。
検索方法(1944年の映像の例)
http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do
・「1944年まで」、「空中写真」⇒「鎌ヶ谷周辺を拡大」
・「初富付近クリック」⇒「高解像度表示」 でキャプチャ。
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●1944/09/24(昭19)陸軍撮影:森の右側の黒い影は、フィルムを押さえた金具の跡らしい(「高解像度表示」 で、森部分がやっと見える)。
森には境界線の針葉樹が見えるが、他に余り木々は見えない。燃料にしたためだろう。(9月撮影なので木があればもっと黒く見えるはず)。西からの野馬除け土手の木が見える。

 
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●1946.02.13(s21):森の境界線の針葉樹がはっきり見える。現在のシラカシの極相林個所に若干の潅木が見える。森北東の場所にはほとんど木が見えない。西からの野馬除け土手の木が見える。


 
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●1947.11.28(s22):):森の境界線の針葉樹がはっきり見える。現在のシラカシの極相林個所、森北東の場所とも低木らしきものが見えだす。森内の道がはっきり見える。水田がくっきりと見える。西からの野馬除け土手の木が見える。

 

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●1961.3.23(s36):):森の境界線の針葉樹がはっきり見える。現在のシラカシの極相林付近に茂みが見え出す。北東の場所は低木が見える。左上から右下に、道路のように木々を刈り取った跡が見えるが、高圧線か?。水田がくっきりと見える。西からの野馬除け土手の木が見える。

 
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●1966.10.19(s41):):森の境界線の針葉樹がかろうじて見える。現在のシラカシの極相林付近に茂みは大きくなってきた。北東の場所を含め、全体に木が密集してきた。左上から右下の道路のような跡が薄くなってきた。水田はまだ全面に作られている。西からの野馬除け土手の木が見える。
飛行場南の道路が整備された。安田学園のグランドができた。




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●1979.11.14(s54):カラー映像:森の境界線の針葉樹がかろうじて見える。シラカシの極相林付近に茂みは大きくなってきたが、まだまばら。北東の場所を含め、全体に木が密集してきた。落葉樹と常緑樹が区分できる。左上から右下の道路のような跡はほとんど見えなくなった。水田はほんのわずかを残し、畑?雑草になった。西からの野馬除け土手の木がわずかに見える。
粟野コミセンの場所にプールが作られ、家作/アパートも作られた。北の畑に民家が建ちだす。国道464の計画場所が見えてきた。市制公園の野球場・テニスコートが見える。

 
 


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●1984.10.22(s59):カラー映像:森の境界線の針葉樹がほとんど判らない。シラカシの極相林付近の茂みはかなり大きくなってきた。北東の場所を含め、全体に木が密集し育ってきた。落葉樹と常緑樹の区分は判りづらい。水田はすべて畑?雑草になった。埋め立てした場所が見える。。西からの野馬除け土手の木がほとんど見えない。
国道464の工事が始まった。市制公園が東に広がった。


 
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●1989.10.18(h1):カラー映像:森の境界線の針葉樹はほとんど判らない。シラカシの極相林は密集してきた。北東の場所を含め、全体に木が密集した。水田の場所は雑草地のようだ。埋め立てした場所が見える。西からの野馬除け土手の木がほとんど見えない。
国道464が北側のみ開通して車が走っている。市制公園北に建物が建ちだす。

 
 
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●2001.12.31(h13):カラー映像:森の境界線の針葉樹はほとんど判らない。シラカシの極相林は密集。北東の場所を含め、全体に木が密集。常緑樹がはっきり見える。水田の場所は雑草地のようだ、竹林?も見えだす。西からの野馬除け土手の木がほとんど見えない。
国道464は南側(西行き)の工事が始まった。市制公園北に建物がかなり建つ。ストックボックスも見える。 

 
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●2008.5.6(h20):カラー映像:森の境界線、シラカシの極相林など全体に木が密集。常緑樹と落葉樹が区別できず。大津側沿いの雑草地に竹林が広がる。埋め立てした個所に栗林が見える。西からの野馬除け土手の木がほとんど見えない。
国道464は南側(西行き)が開通した。市制公園北に建物、ストックボックスがハッキリ見える。

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●分析:ほとんどの高木は、60-70年経っている。境界線の針葉樹はそれ以上経っている。
⇒問題点:それら老木の萌芽更新は難しい。シラカシの極相林の林床に光が届かない。・・その他・・列記していこう。

2014/01/29

「白井:冨士93-23(高圧線鉄塔) ~ 白井:冨士198-40(八幡神社)間」の野馬土手の現状


「鎌ヶ谷:初富小学校北 ~ 白井:冨士 間」の野馬土手の現状 で調べた、「白井:冨士93-23(高圧線鉄塔)」の場所から、北東に延び、「 白井:冨士198-40(八幡神社)間」の間に存在した野馬土手について、 位置、現状などについて調べてみました。
中野牧の全体像は、http://kamagahara.blogspot.jp/2013/08/blog-post_26.html を参照ください。
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1:Google-Mapsで見るその付近の地図と野馬土手の位置

【中心から、右上に延びる勢子土手の調査】

●より大きな地図で 野馬土手(のまどて) を表示
全体を一度に見るにはこちらが良いのでは(200以上のポイントが一括表示)・・実験中
【↑新しい窓で開いて、本文と同時に見ると理解しやすいでしょう】

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2:明治初期の迅速測図と、現在地図とのオーバレイ図

●下の左図は「迅速測図」で、明治13年(1880年)に測量されたものです。
・2重の太線は野馬土手で、「イ」のマークがあることから「一重の土手=勢子土手」だと判ります。
・野馬土手のこの区間は、約600mの直線で、海抜は約30mです。

・「一本椚牧」は江戸中期(享保8年1723年頃)に「中野牧」に吸収されたため、以降は中野牧の勢子土手です。

・左下のT字のポイント「土手の接点の高圧線鉄塔」から、右上の低地(当時は谷津だったと思われる低地)まで続いています。
・この右上のポイントの直前には、現在は「八幡神社」があります。
・この右上の地点は谷津、そこから神埼川の支川となり、船橋市小室付近で二重川と合流、神埼川となり印旛沼に向かいます。
・その谷津を約500mほど下った地点は、中野牧の「野馬除土手」があり、当時は中野牧と白井村の境になっていました。

●下の右図は「歴史的農業環境閲覧システム」で、
「迅速測図」と「基盤地図情報25000(現状の概略)」をオーバレイした図です。


【↑左=基盤地図情報25000とのオーバレイ図、↑右=迅速測図】


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3:各地点ごとの当時と現状の比較

南西から北東の各地点(F~I~J~K)ごとに「当時の野馬土手」と「現在の状況」を比較していきます。
【↑左図=地点F~I~J~Kの全体像】                  【↑右図=市道のNO資料】
・市道の番号については「白井市道路線網図 」 から入手しました。

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F地点付近:
 
・高圧線鉄塔の真下に野馬土手の遺跡が残っている。

・この地点が
「鎌ヶ谷:初富小学校北 ~ 白井:冨士 間」の野馬土手の現状 」の調査情報との、野馬土手の分岐点である。
 
 















【↑:鉄塔の基礎の盛土が野馬土手の跡】
                                                         

・地理院地図の1974-77年の写真には、F~iH地点に野馬土手が連続して残存しています。【↑】
・野馬土手の北側を見ると、1880年(明治13年)の迅速測図には道路はありませんでしたが、1974-77年には、道路ができています。

・「電子国土Web.NEXT電子国土WebNEXT」によると、1979-83年の写真から人家が建ち始めます。


【←:鉄塔付近から北東を見る】
                                   





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i 地点付近:



・i の地点に野馬土手が一部残存しています。







【←:一部残存】





【←:i の地点からFの鉄塔を見る】










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J地点付近:



・現在、八幡神社の直前まで、道の両側に人家はほぼ切れ目無くつながっています。【↑】

・地理院地図の1974-77年の写真では、半分以上は野馬土手だったと観察されます。【→】














・八幡神社直前から、南西に鉄塔を遠望する。
この商店側の人家の位置に、野馬土手はあった。【→】











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K地点付近:




・道路の突き当りが「八幡神社」です。
【←】










・神社側から見た直線道路。遠方に鉄塔が見えるはず。
【←】











・この「八幡神社」の境内に、「白井開拓30年記念碑」があります。

・その裏面の文に、
「昭和24年(1949年)に、この周辺台地が37名の入植者に売り渡され、その安全・豊穣・繁栄を祈願して八幡神社を建立した。その改修をし、開拓30年を記念して碑を建てた」とあります。

・確かに明治13年(1880年)の「迅速測図」には、この神社は記載がありません。

・左手には「清田源三郎翁顕彰碑」で、当時鎌ヶ谷町に住んでいた人物。所有の山林、通称源内山130ヘクタールを開放したとあります。




・建立者として名を連ねているのは27名ですから、この30年の間に10名の方は何らかの事情でこの地を去ったのでしょう。

・アイウエオ順だと書かれていますが、記載された名前はかなりランダムです。多分寄付金額の差で順序が入れ替わっているのでしょう。

・上段の右から、緑川、鈴木、中島、石井、三橋、長谷川氏あたりが高額な方たちでしょう。


★「開拓の碑 冨士(千葉県白井市)」・・きいちさん
の「戦後開拓地」情報に、この碑に関連する情報が詳しく書かれています。
(ただし、八幡神社から南西に向かった、道路左側が防風林跡で・・ と書かれております。当初の「野馬土手」は、開拓の時代には「防風林」として貴重な林だったのかもしれません。)


<完>

「鎌ケ谷の野馬土手」e氏 著作(~2018年)も参考に